アニメごろごろ

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プリンセス願望が失われた女の子の物語を振り返る

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リタ「女の子もヒーローになれる!」

キュアエール「男の子だってお姫さまになれる!」

プリキュア史に残る屈指の名言を生み出した「HUGっと!プリキュア」。19話では男の子はこうあるべき、女の子はこうあるべきという人の心を縛る価値観に対して、素晴らしい主張をしてくれました。

テーマ自体は既に色んな作品で扱われているので、もしかしたら新しくないと思う人もいるかもしれません。しかし、このテーマを日本を代表するキッズアニメプリキュアシリーズで取り上げたことには、やはり大きな意味があったと思います。

19話の詳細は既に他の方が書かれているので、知らない人はそちらを調べて読んで頂くことにして、本稿では女の子がヒーローに至る迄の経緯、その女の子の苦労と活躍について書き連ねます。

 

 

シンデレラに憧れるしかなかった女の子

継母達から酷い目に遭わされるヒロインが、素敵な王子様と結ばれて幸せになる。最も知られている女の子の物語として、上で述べた類型があります。

「シンデレラ」的な素敵な男性と結婚して玉の輿に乗る話は、日本の「落窪物語」や中国の「掃灰娘」といった類話が世界中で発生している事実から分かる通り、時代も国境も越えて女性に愛される物語。

一般的に男性が悪党を倒して美女を獲得する話を好むように、女性も王子様と結ばれる話を好むとされています。大雑把に言えばヒーロー願望とプリンセス願望。

 

さて、ここである疑問が生まれます。それはどうして王子様と結婚する物語が、大昔から女性を中心に支持されてきたのかということです。別に女性が悪党を倒して偉くなる話が、支持されてもいいはずではないでしょうか。

この件に関しては、本能的に女性が男性より恋愛に関心が強く、裕福で立派な男性を捕まえて楽したいからなんて言葉で済ませる方もいるかもしれませんが、それだけで説明が付くとは思えません。

 

上記の物語が支持された理由。その背景には女性が社会的に立場が弱く、男性と結婚する以外の生き方が十分に与えられていない時代が長く続いた。その様な環境的な要因が影響した部分も少なくないと考えています。

男性優位社会で女性が賢く生きる為には、社会が求める女性らしくあること。より正しく言い替えるのであれば、男性が理想とする女性であること。ボーヴォワールが自著に記した「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」というあれです。昔の女性は勉学に励みたくても、花嫁修業をさせられたりしました。

 

政治家、学者、医者と様々な職業に就ける男性と比べて、女性は社会を生きる為の選択肢が限られ、高収入の男性と結婚しなければ裕福な生活は難しい。経済的な自立が困難で結婚を視野に入れなければならない状況が、自然と女性の恋愛に対する関心を高めて、素敵な王子様とのラブロマンスを求めさせたところはあるでしょう。

その欲求を受けてラブロマンスが世の中に溢れていき、それを次世代の女の子が小さい頃から親から与えられるなどして、恋愛を価値あるものとする価値観を無意識に自身の中に取り込み、世間一般が考える女の子らしい女の子に育つ。

 

ちょっと記事の結論を先に言ってしまう形になりますが、近年の女児アニメにおいて恋愛を重視しなくなったことは、上記の女性が恋愛に生きるしかない問題と密接に関係していると思っています。 

 

 

女性が権力を手に入れる方法

未だに男女の仕事に関する格差が問題視されていますが、数十年前は女性が社会で活躍する機会は更に少ない。それ故に様々な物語を見ても「ベルサイユのばら」のオスカルの様に大勢の部下を率いる女性キャラはあまりいませんでした。

いたとしても司令官や将軍の段階を飛ばして、クシャナや城戸沙織みたいにいきなり王女や女神になってしまいがち。それって両方とも生まれで決まるもので、本人の実力で地道に手に入れたものではないですよね。

 

女児アニメでも男児アニメでも力を持つ女の子は、魔法のプリンセスとか女神の生まれ変わりとか博士の孫娘とかトエル・ウル・ラピュタとかになりやすく、本人と血のどちらが凄いのか何だか分からない。

76年の「ゴワッパー5ゴーダム」は初めて女の子がリーダーに選ばれたロボットアニメで、当時としてはかなり攻めた作品ではありました。但し、メンバーは年下の男の子しかいないという設定。これでは年長者だからリーダーに選ばれた感が否めません。

 

 

女性が活躍出来る自由な職場

性別、年齢、身分の壁を壊して人の上に立つ女の子は希少。そうした窮屈な時代で女性が実力で評価される場所はどこにあるのかと言えば、皮肉にも主人公が敵対する悪の組織でした。

ドロンボー一味のドロンジョ様やスーパー戦隊の女幹部など、悪の組織には自分より年上の男性に命令する女性が結構います。当時の日本の状況から考えると、信じられない位に女性の幹部が多いですよね。

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彼女達はセクシーな衣装で男性視聴者に媚びている疑惑がかけられていますが、それはファッションセンスの問題であって、作中の立場は必ずしもそうとは言えません。しっかりと上に立つだけの実力を備えています。

実力主義は悪の組織の美点。基本的に手段を選ばない人達の集まりですから、性別も境遇も結果を出せば気にされません。中には組織の目的から外れていなければ、下剋上も許される空気がありますからね。悪の組織は勝てばいいのだ。

トランスフォーマーシリーズのスタースクリームとタランスは、何度も反旗を翻しては罰を受けていた気がしますけど、それでも役に立つ駒なので側に置いてもらえていました。

 

悪の組織に限った話ではありませんが、主人公の敵対勢力は日本の常識に縛られない為に、女性を最前線で戦わせることや、非人道的な改造手術を施すことにも迷いません。

男性も女性も彼等にとっては等しく駒。女性にはお茶くみを命じるよりも、主人公達に毒を盛れと命じるような人達が大勢います。 うん、とても殺る気に溢れた職場ですね。おかげで活躍の機会に恵まれています。  

 

 

プリンセスになれなくてもいい

時代が変われば、作品も変わる。66年には初めて男の子ではなく、女の子をメインターゲットにしたアニメ「魔法使いサリー」が放送されました。

魔法の国からやってきたプリンセスのサリーは、人間界で沢山の人達と交流を深めます。この系統の魔法少女ものは次から次に作られているのですが、これらの物語が行き着く先には共通点があるんですよね。

簡単に言えば、特別な魔法を使えることやプリンセスであることより、大切にしたい人の絆があるということ。最終回付近では主人公が身分や能力を失うかもしれないとしても、それでも今まで一緒に過ごしてきた人達を守ろうとする姿が描かれます。

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もちろん、全作品に当て嵌まる話ではありませんが、「魔法使いチャッピー」や「魔女っ子メグちゃん」や「魔法のエンジェルスイートミント」の結論はそこになります。自分にとって本当に大切なことは、大層な肩書などではないという価値観。

男の子の物語で例えるなら、竜を倒して英雄になることより、身近な人達の笑顔を守りたいという方向性になるでしょう。「シンデレラ」とは逆に玉の輿に乗るどころか、身分が平民に下がる展開も有り得ます。

要するに作品の出発点としては、プリンセスという女の子が憧れている存在を描きながらも、最後はそんなものはどうでもいいということを伝えているんですよね。

 

 

魔法で大人になったら何になる

アニメの新時代を切り開いた「魔法使いサリー」。その3年後に始まった「ひみつのアッコちゃん」の主人公は、魔法の国からやってきたプリンセスでも何でもないごく普通の女の子。彼女に少し違うところがあるとするなら、魔法のコンパクトで変身するところ。

加賀美あつ子が変身して色々な職業を擬似的に体験する作風は、当時の女の子の変身願望を満たして大ヒットしたそうです。その後の魔法少女ものの方向性を決めることになりました。その道のプロフェッショナルに変身するというのは、73年の「キューティーハニー」にも取り入れられていますね。

 

それから暫く間を置いて始まった82年の「魔法のプリンセスミンキーモモ」では、モモが大人に変身して様々なプロフェッショナルになり、困っている人達や動物達を助けていきます。

ミンキーモモ」の脚本家も語られていたように、この頃の社会で働く大人の女性は、まだまだ女の子が憧れるキラキラした存在。子供の大人になることへの期待感は、OPの「大人になったら何になる」にも表れていたと思います。大人になったら夢は叶えられる。魔法は大人になる手段。

ちなみに、両作品は沢山の職業を体験させるものでしたが、その描き方は特定の職業の表面をなぞった程度でした。毎週20分強でトラブルに首を突っ込み、変身して解決するのですから、そうなってしまうのは当たり前ではありますよね。

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そこで次第に特定の職業にテーマを絞った作品も作られるようになり、83年の「魔法の天使クリィミーマミ」は変身して美少女アイドルに、85年の「魔法のスターマジカルエミ」は変身して一流マジシャンになります。

ぴえろ魔法少女シリーズと呼ばれる両作品のストーリーは、魔法が無ければ成り立たないものの、逆に言えば魔法の役割はそれ位しかなく、どんなトラブルも解決してくれるスーパーパワーにはなっていません。

魔法は万能ではない。先程は言及しませんでしたが、魔法の限界は様々なトラブルを解決してきた「ミンキーモモ」の終盤で既に語られており、モモは魔法の力で人の夢を叶えられない事態に直面していました。ちなみにその少し後に魔法を失い、交通事故で亡くなるとかなんとか。

 

 

魔法から卒業する女の子

「シンデレラ」の時代から女の子の夢を叶えてきた魔法。社会的弱者である女性を助けてきたそれは、女性が自由に生きられる社会になる度に存在価値を薄れさせていきました。

本当は魔法なんて要らないのではないか。魔法の限界を示した「ミンキーモモ」の後に生まれたぴえろ魔法少女シリーズは、その問題に対して初期作品「クリィミーマミ」から向き合い、85年の「マジカルエミ」で魔法不要論をはっきりと示しました。

 

まずは「クリィミーマミ」の話に触れていきます。主人公の森沢優は魔法で美少女に変身して、クリィミーマミとしてアイドルの仕事を行います。午後8時のシンデレラと呼ばれる彼女の悲劇は、魔法が解けても素敵な王子様が直ぐには迎えに来てくれないことにあります。

優の好きな大伴俊夫はクリィミーマミの正体に気が付かないまま、熱心に彼女の追っ掛けをしてばかり、反対に優に対する扱い方は前より雑になってしまいます。つまり優の一番の恋のライバルは、魔法で変身した自分という訳の分からない状況なんですよ。

その問題に優は悩まされることになります。「シンデレラ」の様に魔法が本人を幸せにするとは限らない。アイドルという立派な身分を手に入れても、それだけでは得られない喜びがあることを描いています。

 

次に「マジカルエミ」の話に触れていきます。主人公の香月舞は種も仕掛けもない本物の魔法を使うマジシャンになるより、地道な努力を積み重ねてマジシャンになった方が楽しいことに気が付き、最終的には自分の意思で魔法を放棄します。

魔法で夢を叶えるべきではない。のび太ドラえもんの道具に頼ることなく、ジャイアンをやっつけられるように、魔法少女も魔法を使わずに夢を叶えようとします。

85年に男女雇用機会均等法の制定され、女性と男性を平等に扱うべきと考える時代では、もう女の子は魔法に頼らなくてもいい。当時の状況は詳しく知らないですけど、恐らくそういう雰囲気が生まれていたのでしょう。

 

以降の魔法は主人公の夢を叶える機会が少なくなります。但し、例外は何時でもあるもので02年の「満月をさがして」の神山満月は、死神の神力を借りて歌手になっています。

上記の文脈に沿って言えば、許されるべきではない卑怯な行為に感じられますが、彼女の場合は余命が1年しか残されていません。その不幸な境遇を思えば、金髪の美少女に変身する位のズルは誰もが受け入れると思います。

 

 

女性が上司になる時代

ゆっくりとではあるものの、女性が自分の理想を実現する社会へと前進する。時代の空気を反映するように、90年代には権力を生まれによることなく、自分の力で手に入れる女性キャラも増えました。着目すべきは男性目線で作られやすい特撮ヒーローにも影響が出ている点。

91年の「鳥人戦隊ジェットマン」に登場する小田切司令官、96年の「ウルトラマンティガ」に登場するイルマ隊長、両名とも極めて優秀な女性でした。別に悪の組織で働かなくても、女性はこれ程の権力を独力で掴めるようになりました。

これより少し先の時代にもなれば、リーダーが女性であることを誰も気にしなくなります。仕事の能力に男女差なんて関係ないので、わざわざ性別に言及するのはナンセンス。この辺ははっきりと時代の差が見られます。

 

 

弱くても許される男の子

さて「新世紀エヴァンゲリオン」に代表されるように、90年代から00年代にかけて、かつて男性に守られるプリンセスであった女性は強くなりましたが、反対に男性はヒーローの役割から逃げて弱くなりました。

どちらの出来事も個人の権利が認められ、男女のあるべき姿が変わった為に起きたのでしょう。女性は育児や家事に専念しなくてもいいし、男性は出世して一家を支えなくてもいい。性別を基準に決められた役割の解体、そういう方向に社会は進んできました。

 

個人的には「最終兵器彼女」や「灼眼のシャナ」といった平凡な主人公と特別な力を持つヒロインの物語の台頭も、男性オタクが自分より年下の美少女キャラに「ママーッ!」とか支離滅裂な発言をすることも、上記の文脈から発生したものだと思っています。

あの発言は頭がおかしくなったように見えるかもしれませんが、マッチョな男性像が解放される時代の流れ的には正しい反応なのです。多分。

 

余談になりますが、ディズニーが製作したアニメ版「シンデレラ」から、65年が経過してリメイクされた実写版「シンデレラ」。15年に上映されたこの作品はストーリーが何ヵ所も変更され、その中で特に大きいものとして王子様の内面を深く描いたことがあります。

アニメ版の王子様はただパーティーで美女を探すだけの人物でしたが、実写版は自国の安全を確保する目的で、国王に政略結婚を命じられる人物になりました。

シンデレラを飾る装飾品も同然の肩書だけが魅力的なキャラから、シンデレラと同様に不自由な生活に悩んでいる等身大のキャラへ。王子様の設定と内面を描く姿勢に、に男女を平等に描こうとする時代の変化が感じられますね。

個人的には 91年の「美女と野獣」や92年の「アラジン」あたりから、ディズニーは男女を対等に描く方に進んでいったように思います。

 

 

魔法も地道な努力で手に入れる

少々脱線したので、話を女の子の方に戻しましょう。長々と説明してきましたが、魔法は人々の夢を叶える力ではなくなりました。とはいえ、魔法自体が物語から姿を消した訳ではなく、今まで通りに人を助ける目的では使えます。

おジャ魔女どれみ」ではどれみ達が魔女ガエルになってしまったマジョリカを元の姿に戻す為、立派な魔女になることを志します。

設定的に魔法を使用しやすく、ともすれば「ミンキーモモ」みたいに強力な魔法に頼りがちになるように思えます。しかしながら、どれみ達の魔法が下手で役に立たないこともあって、魔法使用の全能感は非常に抑えられていました。

 

魔女が作成する不思議な効力を魔法グッズも、未熟などれみ達ではおまじない程度の効力しかないですからね。魔法も勉強やスポーツと一緒で、一朝一夕では上達しません。ある意味、これも魔法に頼る事の否定と受け取れるのではないでしょうか。

ちなみに「おジャ魔女どれみ」では、魔法少女服には変身してなるものではなく、着替えてなるものなんですよね。ちゃんと自分で服を着られることが一人前の子供。教育的効果がありそうな演出だと思います。

 

 

新たな魔法の使い道

先程は「おジャ魔女どれみ」に焦点を当てて紹介しましたが、その当時の魔法少女ものがどうなっていたのか、ちょっと全体に目を向けてみましょう。

80年代後半から90年代前半にかけて「ひみつのアッコちゃん」と「 魔法使いサリー」と「ミンキーモモ」と過去作品のリメイクが続いた後、魔法少女ものでは新たな魔法の描き方が登場することになりました。

 

端的に言ってしまえば、90年代には悪と戦う戦士の力に、00年代にはトラブルを起こすマスコットの力になったんですよね。前者は「美少女戦士セーラームーン」や「カードキャプターさくら」、後者は「ミルモでポン」や「おねがいマイメロディ」。

長年、男の子の物語が担っていた戦闘を取り入れた「セーラームーン」は、その作風のおかげで女性のみならず、男性からも熱烈な支持を受けることになりました。 

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その後に作られた96年の「カードキャプターさくら」は、数年後に「魔法少女リリカルなのは」等のオタクに向けたロリっぽい見た目のキュート系戦闘美少女を流行させた偉大な作品でした。

これが無ければ「幻夢戦記レダ」や「愛天使伝説ウェディングピーチ」や「ヴァンドレッド」といった大人っぽいセクシー系戦闘美少女の勢力は、今も強いままだったことでしょう。

 

 

必要なのは剣じゃない

変身して敵を倒す魔法少女。こう聞くと特撮ヒーロー等の男の子の物語と同じにしか思えないですけれど、魔法少女ものは敵を倒すことよりも、心を救うことに重きを置いている点で異なります。

女性が男性よりもコミュニケーションを大切にしてきたからなのでしょうか。プリキュアシリーズでは倒すべき相手に対話を試み、同じ心を持った者として分かり合おうとする展開が少なくありません。

中盤に敵幹部が離反してプリキュアに加わる「フレッシュプリキュア」以降、基本路線はそちらですよね。シリーズ放送開始から数年で、その境地まで辿り着けたことは、男の子の物語と違っている点だと思います。補足すると敵と話し合おうと試みるものは、下記で紹介されている作品にもありますね。

prehyou2015.hatenablog.com

これに対して男の子の物語はどうでしょうか。例えばウルトラシリーズは、人間に迫害される宇宙人や怪獣を取り扱い、人間の悪性を告発する善悪逆転の物語を何度もしてきました。

しかし「(視聴率的に)戦わなければ生き残れない」という事情もあって、正義の意味について問い掛けるだけで、ジャミラの時もノンマルトの時も最後はルーティンワーク的に倒して終わってしまいます。残念ながら、平和的に話し合うことすら難しい。

何と言うか、ウルトラマン達は人間を贔屓するところがあるらしく、宇宙人や怪獣の救済にあまり乗り気ではないんですよね。本格的に敵側と和解する方向に進んだのは98年の「ウルトラマンガイア」や01年の「ウルトラマンコスモス」になってからでした。

 

まあ、シリーズ放送開始時期が数十年もずれていますし、単純に同列として扱うべきではないとは思います。但し、個人的には時代的な差を抜きにしても、女の子の物語の方が戦いを避ける傾向は感じています。

プリキュアオールスターズ」が初代と最新のプリキュアが殴り合う「仮面ライダー大戦」みたいなストーリーにならず、プリキュア全員で協力するストーリーになっているところも、やはりそうした意識が根底あるからなのでしょう。 

 キュアブラックキュアホワイトも「お前の様なひよっ子をプリキュアと認める訳にはいかん!」なんて某ライダーみたいなビックリ発言を後輩にしません。

 

 

異種間コミュニケーション

それでは話を次に進めます。人間が自分の為に魔法を使うことが倫理的に好ましくないなら、人間以外に使わせてしまおう。00年代には「ミルモでポン」や「ジュエルペット」等の魔法の行使をマスコットに譲渡した作品が誕生しました。

この人外設定は非常に便利で、人間なら犯罪になる行為も許されたりします。例えば「ミルモでポン」のヤシチはスカートめくりばかりしていますが、パートナーの日高安純からは「人間だったら犯罪よ!」と殴られるだけで済んでいます。

00年代からはセクハラ行為に対する見る目が厳しく、クリエイターはラッキースケベ等の手法で強引にサービスシーンを入れていましたが、上記の人外によるセクハラ行為も抜け道としていいところを突いていますよね。

 

また話が逸れてきたので、マスコットの話に戻りましょう。初期の魔法少女ものではマスコットは従者の印象が強く、ストーリー的にはいてもいなくてもそこまで困りません。それに対して00年代のマスコットは人間と対等なパートナー。ストーリーは人間と妖精の話が半々位、どちらかがおまけということはありません。

この変化には90年代に社会現象を起こした「ポケットモンスター」や「たまごっち」の影響はあったのではないかと思われます。両作品の大ヒット以降、人間とモンスター、動物、妖精を組み合わせた作品が注目を浴びました。 

デジモンアドベンチャー」に「モンスターファーム」に「ドラゴンクエストモンスターズ」に「金色のガッシュ」とモンスターが好きな人にはたまらない時代でしたね。

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順番的には「ポケモン」より少し前になりますが、人間とロボットの友情を描いたものとして、90年の「勇者エクスカイザー」から始まる勇者シリーズも外せないでしょう。

90年前後は悲惨な戦争を描いたリアルロボットものに人々が疲れてきたのか、反動でコメディ色を強くした「魔神英雄伝ワタル」や「メダロット」等、ロボットを兵器から相棒として描いたスーパーロボットものが勢力を強めた時代。

 

まあ厳密に言えば、人間の手で造られたロボットではなく、機械に憑依した宇宙エネルギー生命体とかそんな感じだったりするのですが、その辺は作品の本質ではないから気にしないでいいでしょう。

人間と異種族、全く違う者同士が一緒になって大きな壁を乗り越え、その度に固い絆で結ばれる。広義では「うしおととら」や「寄生獣」も、同系統の作品に分類されると思います。

 

1人では出来ないことも、2人なら出来るようになる。そうした協力と友情の話は人間同士になりますが、「ふたりはプリキュア」もテーマにしていましたよね。

こうして過去を振り返ってみると様々なジャンルで性格、種族、境遇の異なる者が深い絆で結ばれる過程、その関係性の構築を大切にしていることが伝わってきます。

 

 

夢は見るものじゃない

それでは、ここで話を少し戻しましょう。女の子は便利な魔法に頼らなくても、自分の力で夢を叶えられる。そうしたエールを「マジカルエミ」の最終回は送り、それを受けて多くの女の子は夢を叶える為に、魔法よりも努力を選ぶようになりました。

ここまでの話で努力すれば夢は叶えられることを伝えてきたと思いますが、そうなってくると次は具体的にどの様な夢を叶えるかという話になってきますよね。

 

女の子が憧れる夢。その形は音楽に芸術+イラストレーターデザイナーと人の数だけあるとはいえ、やはり大勢が憧れるものというのはあるものです。そこは作品を作る上で忘れてはならないでしょう。そうしてクリエーターが考えた末に生まれ、過酷な市場の競争に耐え抜いたジャンル。

それこそが「アイドル伝説えり子」や「きらりんレボリューション」や「プリティーリズム」や「アイカツ」といった魔法に頼らないアイドルものでした。途中で何度か流行が途切れていた気もするのですが、今では最も熱いジャンルと言っても過言ではないでしょう。

 

 

近くて遠いアイドルの世界

リアルでも10代前半から活躍する人がいるアイドル業界は、年齢的に視聴者の女の子にとって身近な世界。大人に対する根拠なき憧憬を失った世代が、このアイドルに注目するのは分かる気がします。

年功序列時代のサラリーマンみたいに何十年も人に頭を下げながら、地道に出世する分野では夢が無い。YOUTUBERを見ても分かる通り、もう年齢なんか関係なく、才能ある人はどんどん前に進んでいけますし、子供はそういう若い人が輝ける分野に憧れるんですよね。

 

10代前半の女の子でも、大人と一緒のステージで戦える力がある。もしかすると女児アニメで主人公が中学生になりやすいのは、そうしたリアルの影響を受けているからなのかもしれませんね。 

自分にも手が届く夢。実際に可能であるかは置いておくとして、その感覚を与えられる分野は人を惹き付けます。昨今は地下アイドルを含んだアイドルが、その中に含まれており、物語の次元でも誰でもなれる雰囲気は強まっています。

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その最たる例が「プリパラ」だと思っていて、ここでは色んな人がアイドルになっています。昔はアイドルになれるキャラと言えば、クリィミーマミ月島きらりといった天に選ばれし美少女でした。ですから作中に登場するアイドルも、数えられる程度しかいません。

しかし「プリパラ」は違います。アイドルを始める時に年齢や外見や才能の壁はありません。男の子が女の子みたいな格好をしてもいいし、アイドルには珍しいぽっちゃり体型でもいい。

 

スポ根の血を引く「アイカツ」の世界が意外と厳しく、入学試験に落ちてアイドルになれない人も少なくないのに対して、「プリパラ」はどこからともなく届くプリチケを使えばアイドルになれます。

アイドルとしてランクを上げて輝けるかは別の話になりますが、基本的にアイドルになりたい意思があれば、誰でもなれるのが「プリパラ」の世界。そこに描かれている数十名を越える個性的なアイドル達は、わたしでもあり、あなたでもある。

 

オシャレなあの子マネするより自分らしさが一番でしょ

女児アニメの「プリパラ」と「アイカツ」。作風が違うことについては少し述べましたが、両作品は同時代を代表するだけあって、根底に流れるテーマには共通点が見られます。

そのことを一言で表現するとしたら「自分らしくあれ」。スポーツものが全国大会優勝を目指すように、アイドルものはトップアイドルを目指しますが、大切なのは勝ち負けよりも、本当の自分を出し切れたかどうか。

勝利は二の次。ステージで勝つ為に自分の心に嘘を吐き、大事なファンよりトレーニングを優先したり、なりたくない自分になっていては意味がありません。このテーマは下記で言及した話ですね。

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 「アイカツ」がスポ根の血を引きつつも、スポ根ではないところはそこにあると思います。極論ではありますが、スポ根は自分の感情を押し殺し、コーチの暴言や過酷なトレーニングなど、嫌なことに耐えた者が勝利する我慢大会。

選手が苦難を乗り越えることにより、強くなることに説得力を付与するジャンル。その為か強豪校の選手達はコーチにしごかれてばかりで、あまり楽しそうにトレーニングしていません。

苦しむ者は救われる。敗戦国の日本が大国に追い付こうと努力している時代は、トレーニングの質を考えることより、苦しく見せることに注力する傾向はあったように思います。

 

一方「アイカツ」はどうなのかというと、肉体的に精神的に苦しんでいる者が救われるとは言い切れません。むしろ逆でトライスターにいた頃の紫吹蘭がそうでした。

詳細な説明は省きますが、彼女は自分に合わない苦しい場から逃げたおかげで、再び輝き出せるようになりました。

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アイカツスターズ」でも勝つ為に自分を追い込み過ぎた香澄真昼、桜庭ローラは負けたりしています。気合を入れて周囲の何倍も努力していようとも、自分らしさを見失ったアイドルに勝利の女神は微笑まない。

勝利という目的の奴隷になって、今を楽しめていないアイドルに人はキラキラを感じません。自分らしく生きてトレーニングでもステージでも、充実感に溢れているアイドルに人は惹かれるもの。楽しいのが一番。

 

人に勝ちたければ、勝とうとしてはならない。矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、他者と競争している意識を忘れて、ありのままの自分を出し切れた方が勝ちます。

「シンデレラ」の意地悪な継母的なキャラが不在の「アイカツ」において戦うべき相手は自分。好きな歌や憧れの人への愛を力に換え、道を極める様に人と比べることなく、楽しみながら己の心に勝つ事が理想的なアイカツと言えるでしょう。 

視聴者の気を惹く為、分かりやすくトップアイドルを目標に努力するストーリーになってはいますが、本当はそんなものはどうでもいいんですよ。繰り返し言いますが、大切なのは自分らしくあること。

 

 

正解は私が決めるの

作詞作曲、営業活動、コーディネート、トレーニング、作品によっては何から何まで自分で考えるアイドル。それは社会の束縛から解き放たれ、自由を掴んできた女の子の物語の最高到達点と言えるでしょう。

理想の自分を演出するセルフプロデュースの喜びを知ってしまえば、もう王子様を待ち続けるプリンセスに憧れる夢は見れません。男性と結ばれるだけが幸福な生き方ではないことを訴えるように、近年のアイドルものでは男の影が極めて薄くなりました。

クリィミーマミ」や「きらりんレボリューション」の様に好きな人を振り向かせる話は少数派。女の子の物語も遂にここまで来たのかと思うと胸が熱くなりますね。

 

 

人生で大切なことはキッズアニメで学んだ

自分の人生は自分で決める。昨今のアイドルものが伝えているメッセージは、視聴者の女の子のみならず、私達が生きる上でも大切な教訓。

今後、益々多様化が予想される社会では、価値観も複雑化して正解なんて誰にも分からなくなりますから、何事も自分で決める姿勢が求められることでしょう。

昔は両親や会社の敷いたレールの上を走らされるだけでも生き残れましたが、今や終身雇用制度も年功序列も崩壊しており、転職等の途中でレールを切り替えることも、頭に入れておかなければなりません。

 

そういった世の中を生きる鍵は、自分で人生を設計し、自分で肯定する力になるんですよね。正解が誰にも分からないのであれば、せめて自分自身が納得する道を選ぶ。

社会や他人は自分を裏切るかもしれませんが、自分は自分が信じている限り、最後まで着いてきてくれますからね。失敗しても自分で選んだ道なら受け入れられます。

 

反対に価値観や決定権を他者に委ねているようでは、失敗しても後悔するばかり。そうならない為には、自分らしい生き方を常に考えて動く癖を身に付けることであると思います。

その第一歩は自分の中に隠れた「好き」に正直になり、それを好きな自分自身を誇らしく思えることなんですよね。世間の評価を気にすることはありません。

 

自分を愛して信じる力。その健全な自己肯定感を育んでくれる作品が、絶賛放送中の「HUGっと!プリキュア」であり「キラッとプリ☆チャン」であり「アイカツフレンズ」であると思っています。

キッズアニメであるが故に下に見られる時もありますが、ここから学べる話は沢山あります。実際、視聴後に人生を変える人を何人も見てきたので効果は抜群。上記作品は子供から大人まで楽しめる傑作ばかりなので、興味を抱いた方は是非とも観て下さい。

 

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