アニメごろごろ

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「トラペジウム」こんな原作の改変が素敵なアニメないよ

先日、映画館で鑑賞したアニメ「トラペジウム」の出来が素晴らしく、これは原作小説も読まねばならないと思い立ち、その日の内に購入しました。

そして読み始めて直ぐに分かったことなのですが、アニメは原作小説を無難に短く纏めたものではなく、アニメとして魅力的な作品になるように物語を大幅に作り替えているんですよね。

原作小説をこよなく愛する人からしたら不満な部分もあるのかも知れませんが、個人的にはその改変に称賛を送りたいと思います。

 

工業祭で皆に合わせる東ゆう

アニメではゆうが夢の為に皆とライブを観ようとしますが、サチの登場で計画は狂って仕方なく諦めるという流れです。

ところが原作小説ではライブのチラシを男に渡されたくるみが皆に勧められて行くことになりますが、サチの登場で予定は変更されて最終的にゆう一人だけで観に行くという流れになっています。

何故、ゆうは一人でライブを観に行ったのか。その理由は「自分にはサチと一緒にいたいという気持ちがない」からというものでした。自分の夢の為ですらありません。

社会的な弱者である小さな女の子を嫌がる主人公というのは映像で表現されてしまうと厳しい気はするので、上記の改変は観客にストレスを与えない意味で正解でしょうね。

アニメはゆうの持ち味を残して「彼氏がいるんだったら友達にならなきゃよかった」と原作小説以上の問題発言を付け加えることもありますが、そのフォローとしてゆうから美嘉への謝罪の描写を入れるなどして、全体的に性格がマイルドになるようにコントロールしていたと思います。

 

出番を減らされた亀井美嘉

原作小説では第二の主人公とまでは言いませんが、美嘉の心情が語られるシーンは他の子より多いです。学校に馴染めていないことや顔を整形したことが最初から読者には示され、自分に自信を持てずに居場所を求めている子であることが窺えます。

アニメではそれらがごっそり削られている為、序盤の美嘉についてはゆうのノートの内容から整形した情報が読み取れる程度になり、初見では感情移入が難しくなっています。

この点はマイナスと捉えられますが、美嘉の暗い面が省かれたおかげで美少女という属性が目立つことになり、相対的に性格が悪くて何も無いゆうの姿が強調されるようになっていたと思います。

ここまでの話を聞くと美嘉は出番が減らされてしまった可哀想なキャラに思えますが、そこで終わらせないのが「トラペジウム」のアニメスタッフ。美嘉がメイクの仕方を載せてSNSで評価されるシーンを追加することで、彼女が整形に依存しないで美を求める努力家であることを伝えています。

 

映像と音楽で魅せる東西南北(仮)の活動

原作小説では老人達と一緒にガイドをしたり、中学生に勉強を教えたりといった夢を叶える過程のボランティアにページを割いており、原作者の経験が活かせそうな芸能活動の描写は意外にもあっさりしています。

アニメから入った人の大半は衝撃を受けるのではないかと思いますが、原作小説ではADの古賀に誘われて芸能活動が開始するのはエピローグを除いた全九章の八章目です。まさかの終盤。

そのペースで話が進んでいますので、アニメの中盤の盛り上がり所であった東西南北(仮)がダンスのレッスンを受けて素敵な衣装を着て歌うというシーンも原作小説では無に等しく、終盤の盛り上がり所であった宿題の詞を出し合って皆で歌うシーンに関しては完全に無です。

このように美少女アイドルアニメとして映えると感じられるシーンは、結構な確率で後から加えられたものであるんですよね。地味な改変ではテネタリスの意味がラテン語で優しさであることをゆうに語らせず、聖南テネタリス女学院の校歌として生徒の合唱で表現したことも見事で、歌を用いることで言葉の意味を観客に伝えつつお嬢様学校の雰囲気も出していました。

シーンを追加する行為は原作小説の一部を削ることと引き換えなので悩ましいところではあるのですが、アニメの評判を見ている限りではアニメスタッフの判断は良かったと思います。

さすがは「ぼっち・ざ・ろっく!」の製作会社と「アイカツスターズ!」の脚本家が組んでいるだけのことはありますね。類似した作品を過去に手掛けているだけあって見せ方が上手です。

原作改変は批判の対象となりやすいですが、原作の重要な部分を外さないでメディア毎の特徴を理解していれば魅力的な作品は生み出せる。「トラペジウム」はそのことを教えてくれる傑作でした。