アニメごろごろ

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「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」10巻 感想

第一から第三の手記は誰の独白なのか?
これは第一が比企谷、第二が葉山、第三が陽乃だと思います。

第一の手記
あのとき、読み進めることのできなかったその先を。これから、見なければならないのだろう。

p341
その続きを読むのを、結末を知ってしまうのを躊躇わせた。


第二の手記
おためごかしのお道化を見抜いてほしかったのだ。

p284
多くの人間が葉山隼人から、善意を、優しさを、お道化を提供されることを当たり前だと押し付けて、その犠牲を強いた。


第三の手記
本物なんて、あるのだろうか。

p341
陽乃「本物なんて、あるのかな…」

上記の文章あたりを読んで素直に考えれば、多分これが妥当な組み合わせではないでしょうか。これを押さえた上で読み返すと陽乃の「そっか。隼人も期待していたんだね」という台詞が葉山と陽乃のことを指していると推察出来ますね。第二の手記では「あるいは邪悪に人一倍敏感なあの人なら、もしかすると自分のことを見つけてくれるのではないかと」と書かれていますが、ここで語られる「あの人」とは比企谷を指しているのかな。やはり「俺ガイル」は何度か読み返したり他の読者の意見を見て回ったりしないと誤読の恐れがあるなとしみじみ思いますね。


ぼっちになることこそ自由の獲得に繋がる第一歩
皆から愛される人気者の葉山はその期待に応えようとするあまり、ありのままの自分を曝け出せず辛そうです。それと比較すると誰からも期待されていない比企谷は好き勝手に生きられて気が楽だなあ。ぼっちなら友達から嫌われない様に気を遣いながら接する必要も無ければ、友達との付き合いで自分の時間を奪われることも無い。ぼっちだと得られないものは沢山ありますが、リア充になる為に何かを失わなければならないとしたら、ぼっちで構わないと考える読者は結構いると思うんですよね。

何かを得るには対価が必要。例えばどうしても彼女が欲しければ清潔にしてお洒落にして筋肉も鍛えて、会話の仕方を学び相手を選り好みせず出会いの多い場所に出向けば、世の中にいる殆んどの男性には可能だと個人的には思っています。でもそういうのはぶっちゃけ面倒なので分かっていてもやらないですよね。何時までも結婚しようとしない人達にその理由を聞けば、現状の自由な生活を失うのが嫌だからと答える割合が高いことからも言えるように、他者と繋がらないことは結構自由なものなんですよ。

まあぼっちだと周囲からは変人扱いされたり笑い者にされることもあるので、周囲からの視線に耐えられない人間には厳しいものがありますが、比企谷なんかはどうでもいい連中からの視線であれば結構耐えられます。それは中学時代の失態で鍛えられていることと家庭環境のおかげというのはあるんじゃないかなという気がします。小町にごみいちゃんと呼ばれる様な駄目人間ではありますが、そんな比企谷のことを家族は何だかんだ言って肯定しています。

小町からは結構酷いことを言われているけど、それで比企谷は全然傷付いたりしません。そこに二人の関係性の深さを感じます。比企谷はそれでショックを受けているみたいなことも時々言いますが、本当に傷付いている訳ではないのは見れば分かりますよね。雪ノ下や由比ヶ浜と揉めた時みたいに落ち込んだり悩んだりもしていないですから。


自然体で接することの出来る家族
ああいう小町みたいな気を許している相手の存在は、心の支えとして相当強いと思います。ありのままの自分を曝け出せる場所とそれを受け入れてくれる人達があれば、陽乃みたいに本当の自分を見失わなければ他者の視線にも耐えられないことも有りません。これを持たない葉山と雪ノ下は生きるのが非常にしんどいと思う。ちなみに比企谷と同じシスコンの川崎さんが精神的に安定しているのも家族との関係が良好であることが大きいでしょうね。

学校でも家庭でも誰かの期待に応えて強さを見せなければならない葉山の生き方、これがさらに強まると「Fate」のセイバーみたいな個人としての生を完全に捨て去ることになるでしょう。そんな誰かの期待に応える自己犠牲的な生き方は間違っていると感じたから比企谷は葉山のことを否定します。相変わらず捻くれた方法でしか救うことが出来ませんが、比企谷の言葉は葉山の枷を少しは軽くしてあげられたのではないかなと思います。

ところで葉山は自分と接点の無い比企谷の中学時代の同級生に対しては相当きつい物言いもしていましたが、あれを見た感じでは何時如何なる時であっても完璧人間を演じるということでも無さそう。自分の生活圏から離れたところにいる相手には態度を変えることが出来ない訳ではないのであれば、留学して今迄の友達や同級生の視線が無い場所に行けば何かが変わるかもしれません。いや多分変わらないと思うけど、演じる役回りは多少違うものに出来るのではないかなあ。


雪ノ下雪乃は果たして本当に変わったのか
姉である陽乃の影を追うのを止めた雪ノ下は成長した様に見えますが、葉山から見れば姉の影を追うのを止めただけでしかないそうです。これの真意はまだ判りかねますが、現段階での自分なりの解釈としては姉を意識している点では何も変わっていないという意味だと思っています。雪ノ下が生徒会長選挙に立候補しようと考えていたのも、それが陽乃が経験していない事柄だったからです。自分自身が本当にやりたいと思って選択せずに、陽乃がどうであったかを考えて選択する。あらゆる選択が陽乃を基準となっていては自立しているとは言えません。

葉山は本心では望んでいないとしても皆の期待に応えることは、自分の意思によるものだという覚悟を比企谷に見せました。これが強がりなのかどうかは判断出来ませんが、葉山の姿からは誰かに決められた道だとしても歩み続けようとする強い意志を感じます。それでは雪ノ下の方はどうかというと、まだ何がしたいのか自分でも分かっていないと思うんですよね。とりあえず陽乃とは違う道を歩んでみようと思うだけで、心の底から望んで自らの意思で成し遂げたい目標は感じられません。そこが雪ノ下の何も変わっていないところではないのかなと。



教えようとも知ろうともしないで理解を求める
陽乃の話していた「そう、あれは信頼とかじゃないの。…もっと酷い何か」とは何を指しているのでしょうか。比企谷なら自分の進路について誰にも話さないだろうと雪ノ下は信頼している訳ではないとのこと。これが信頼でも本物でもないとしたら何になるのか。

これについては比企谷が信頼出来る人間なのかどうか試そうという意図があった。あるいは進路のことを誰にも話すなという自分の考えを何も言わないでも汲み取って欲しいと期待を込めていたんじゃないかなと予想。こうした相手を信頼していない自分本位な行動であれば、もっと酷い何かと呼ばれるに値すると思います。

それにしても雪ノ下は自分のことを話そうともしなければ、相手のことを知ろうともしませんよね。これは大好きな葉山に少しでも近づきたいが為に、あの手この手で葉山のことを理解しようとする三浦とは真逆。雪ノ下は自分から自分のことを話そうとしないのに、理解してもらいたがるから困る。たわいない中身の薄い会話により相手のことを探りながら少しずつ歩み寄るのが一般的なコミュニケーションですが、雪ノ下の場合はそうした表層的なやり取りを拒否して深層的なものを目指すところがあるんですよね。

だから相手の気持ちを考えて言葉を選ばずキツイ物言いになるし、自分があれこれ語らないでも通じ合えると比企谷達に対して期待してしまう。そんな態度を貫かなければ嘘偽りの無い本物は見つけられないし意味は無いと考えている節はあるんじゃないかなあ。これは何というか受身過ぎだと思う。言葉だけでは零れるものもあるし真に分かり合えないとしても、それでももうちょっと話さないとまずそう。