アニメごろごろ

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「終末のイゼッタ」フィーネとベルクマンの相反する思想

大切な者を切り捨てる覚悟
国を守る為に親友を使い捨ての駒にしたエイルシュタットの公女フィーネ、自分の身を守る為に国の情報を売るゲルマニアの少佐ベルクマン。キービジュアルで向き合う両者の生き方は対称的でした。個と全のどちらを優先的に選ぶのかは大昔から議論される永遠に答えの出ないテーマですが、物語の次元ではどちらかといえば自分の感情や身近な人達を大切にする事が肯定的に描かれています。

例えば「結城優奈は勇者である」では大切な人達を戦わせる事が嫌で世界を守る使命を放棄した犬吠埼風や東郷美森の心の痛みを視聴者に伝える一方で、止むを得ない事情から彼女達を強制的に戦わせる大赦の大人達は悪者に見える様な演出がされていました。

終末のイゼッタ」は逆にイゼッタとゾフィーを生け贄に国を守る非情な決断を下せるフィーネとマティアスの覚悟にある種の美しさを宿らせています。イゼッタも国を治める王ならそれが正しい姿であると考えていて、教皇庁に目をつけられて国を危険に晒さない為にゾフィーを異端審問官に引き渡したマティアスの行為を王として当然の判断であると言い切ります。

普通の主人公ならゾフィーの苦しみを分かろうとした上で復讐を否定すると思いますが、イゼッタは愛した男に捨てられ火に焼かれたゾフィーに同情の欠片も見せません。それはイゼッタが世界を平和にする理想を実現する為に、フィーネに自分の全てを捧げる覚悟を持つからです。

「だから命じて下さい姫様、フィーネの魔女として戦え、全てを終わらせろって」

終止符の意を持つフィーネの魔女として命と引き換えに魔力を根絶して戦争を終結させるイゼッタにとって、ゾフィーの悲劇は言い方は悪いですけど共感するに値しない小さな問題なんですよね。さて物語の方向性を左右する主人公達がこの様な生き方をしていると、国に忠誠を誓い死ねる奴が偉いみたいな雰囲気になるかと思いきや、それを否定する描写も入れられています。その代表格がベルクマンであると言えると思います。


国の為に生きる愚者は早死にする
皇帝の命を受けて魔女の研究を進めていたベルクマンは多大な功績を上げましたが、有能故に皇帝の不興を招いて親衛隊に抹殺されそうになりました。そこでベルクマンは生き残る策としてゲルマニアの情報を流して、エイルシュタットに自分を狙うゲルマニアを倒させる事を企みます。

先に切り捨てたのはゲルマニアな訳ですし、自分の身を護る為に国を売るのは仕方が無いとはいえ、国が滅びても構わないという態度は自国と敵国の双方から非難されます。こういう保身を第一人に考えるキャラは死んでも不思議では無いのですが、ベルクマンはバスラーに銃口を向けられた後も片目を負傷するだけで生き延びています。そしてベルクマンが生き延びる一方で彼から自分の同類と評されたジークは、同類では無い事を示すかの様にフィーネを逃がす囮になって命を落とします。興味深いのはジークの死が仲間の為に死んだなんて綺麗な描き方ではない点。

ジークはイゼッタの弱点に関する話を立ち聞きしていたヨナスを情報の漏洩を阻止する名目で殺しています。国を守る為とはいえ同胞を手にかけた事に罪悪感を覚えていたのか、ジークは最終回で目の前にいたゲルマニアの兵士に自分が殺したヨナスの姿を重ねて動揺した所為で撃たれます。要するに国を優先して個を切り捨てた事が間接的に彼を死なせる結果を招いているんですよね。このジークが死んでベルクマンが生き残る展開には、国に忠誠を誓う事が絶対的な正義ではないという主張を感じます。

ところでベルクマンが撃たれたにも関わらず生きている理由ですが、個人的にはバスラーに殺意が無かったからだと思っています。バスラーは「お前は自分さえ良ければいいってのかよ」と激昂していますが、ベルクマンが皇帝に狙われる事は察してはいましたし、自分の武運を祈る彼に対して「他人の為に祈ってる場合か」と心配はしていました。国を売る事は許せないけれども、それをしなければならない事情も理解しているので、命までは奪わなかったのではないでしょうか。



空中戦の新境地を切り開いた魔女の力
少女が魔法を使って実際の戦場で戦う物語を戦記ものふうに作りたい。「終末のイゼッタ」は出発点が魔法で戦う少女にある為か、為政者や指揮官の考え方が浅いなど、戦記ものとしては微妙な部分も見られます。その方面では前期に放送していた「ねじ巻き精霊戦記 天鏡のアルデラミン」の方が優れていたと思いますが、こちらはその代わりにファンタジー要素が非常に弱いという問題を抱えていました。この作品はタイトルに精霊なんて入れているにも関わらず、物語が進む度に精霊の存在感は薄れてしまい、戦術が現実の戦争のそれと変わらない展開になるんですよね。わざと戦争に負けて腐敗した国を他国の力で変える展開は好きなんですが、精霊の扱い方については残念に思っていました。

終末のイゼッタ」はその二の舞にならずに魔女が物語の中心に常に置かれていました。魔法の設定が物語に密接に絡んでいた点は特に素晴らしかった。まさか地脈に流れる魔力を利用して魔法を発動する設定から、あそこまで話を膨らませられるとは思いませんでした。

魔法が使えない場所がある事を敵に悟らせない様に狙撃や爆薬で魔法を擬似的に再現、ゾフィーが魔石で魔力を吸い尽くした場所にイゼッタを誘い込み捕獲、イゼッタが魔石で世界中の魔力を全て吸い上げる事で魔法を世界から消し去る。この辺の自分の魔力で戦う系統の作品には真似が出来ない展開が凄い好きです。白き魔女の伝説も活かされていましたし、死に設定は殆んど無かったのではないでしょうか。

終末のイゼッタ」は映像面でも魔法は大活躍、ライフルに股がる魔女が空を駆けて剣や槍を操り、戦車を大破させる光景は圧巻の一言に尽きる。昨今のミサイルやビームが飛び交う空中戦には飽きて来ていたので、列車を鞭の様に振り回すゾフィーの攻撃は斬新で心が踊りました。流石に魔法で戦う少女を描きたいところから始められただけあって、イゼッタとゾフィーの戦闘は独創的で一線を画していました。

個人的に好きな場面は上記の魔法を用いた戦闘とビアンカの裸体を見てしまうリッケルト。女性の裸体を見た罰として水をかけられる場面は長年見てきましたが、水をかけられる男性の方が綺麗に描かれている作品は初めて見た気がします。水で濡れたリッケルトの肌の光り方を変えるところとか、その後の壁に寄り掛かるリッケルトの濡れた髪が壁に張り付いているところとか本当に凄いですよね。水をぶっかけられるリッケルトの顔がエロくて、ビアンカの豊満な肉体の印象が薄れてしまいそうでした。