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「辺獄のシュヴェスタ」エラの復讐は誰の為に行われるのか


辺獄のシュヴェスタ - pixivコミック | 無料連載マンガ

最終巻の表紙は聖母マリアを象徴するユリとエラ。この花の意味はエラが処刑人を引き受けて手を血で染め、母親の仇であるエーデルガルトを殺めようとも、心の有り様は聖母マリアの様に美しいままということなのでしょう。人を殺めた者には似つかわしくないユリの花の存在は、エラの歩んだ道にも意味はあるのだと祝福しているように思えました。復讐の奴隷として生きてきたエラの人生は、決して虚しく悲しいだけのものではない。

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相田裕先生の「GUNSLINGER GIRL」の様に復讐を目的に生きているキャラを主人公に配置した場合、主人公が宿す負の感情に引っ張られて作品の雰囲気は暗く重く、読んでいて陰鬱とした気分になりやすいのですが、竹良実先生の「辺獄のシュヴェスタ」はそうなるどころか逆に生きる力を与えてくれる作品でした。復讐を諦めずに巨大な組織を相手に立ち向かうエラの姿は逞しく、家族を奪われた者に漂う悲愴感が一切感じられません。


復讐を通して読者に何を伝えるか
復讐は何も生まないと主張する作品は世の中に溢れています。私刑を禁止する社会において、復讐の肯定は教育的に宜しくないので、作者もそれを描くことを避ける傾向にあります。復讐したからといって無くしたものは戻りませんし、復讐は復讐を新たに生み出してしまいますからね。世界から少しでも争いを無くす為には、誰かが怨みを捨て去って復讐の連鎖を断ち切らなければならず、その損な役は読者を正しい道に導く主人公達が背負うことになりやすい。

忠臣蔵」的な仇を討つ展開は快感を覚える読者がいる一方で、現代人の価値観では倫理的に許されないと否定する読者も少なくなくないので、消費者の意見に耳を傾ける商業作品では人を殺める展開が描かれ難いです。その様な圧力があるから世界中を相手に商売するディズニー作品は、悪役を退場させる場合は主人公に手を汚させないで転落死させる。「白雪姫」も「美女と野獣」もハッピーエンドの邪魔になる悪役は不幸な事故で舞台から消されます。主人公の評判を下げない為に、そうしたある種の逃げをしなければならない程、殺人の罪は消費者から重いものとして受け止められてしまうものです。

日本のアニメや漫画も悪役を問答無用で倒してしまう展開に抵抗を感じるようになり、キッズアニメを代表するプリキュアシリーズでは悪は外にあるものではなく、人間の心の内に潜む負の感情であると繰り返し描いてきました。そして人間は己の負の感情と正面から向き合い、それを抑え込んで生きていかなければならないと伝えてきました。プリキュアシリーズでは世界のに起きる悲劇の原因を悪役に全て押し付け、その悪役を退治すれば世界は救われるなんてことはもうしません。戦時中のプロパガンダ映画みたいに善と悪に分けて悪が滅ぶまで戦わせる展開は古く、今時の作品は悪役の事情を聞き出して分かり合うことが基本にあります。

そうした作品は道徳的な観点から評価すれば完璧な構造で子供に見せるべきではあると思うのですが、これが増えて当たり前になり過ぎると娯楽を求める側としては、どうしても飽きてしまうんですよね。そうは言っても昔の様にただ悪役を倒すだけでは、注文が多くて我が儘な消費者は見る気が起きない。そこには登場人物が復讐する動機が描かれるだけでは不十分、物語的に復讐を描かなければならない理由も迫られます。

辺獄のシュヴェスタ」における復讐の扱い方がどうなっているかですが、ここでは復讐を誰にも縛られない自由な意思の一種として用いました。エラが閉じ込められた薬物投与や集団監視によって魔女の子を洗脳してしまうクラウストルム修道院、この尊厳を奪い取る舞台があるおかげで、通常なら否定されるべき復讐にも意味が生まれます。復讐の炎を燃やし続ける行為はクラウストルム修道院の洗脳に屈しないことであり、それは自由な意思を与えられた人間が人間らしく生きている証でもあります。

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以前も例に挙げた「テイルズオブベルセリア」もそうだったんですけど、人間の自由な意思を善悪を問わないで肯定的に描く時は、世界平和を目的に人々を洗脳する悪役を配置すると物語が良い感じに動き出すみたいですね。エーデルガルトもアルトリウスも宗教と知識を利用して、無知な人々から尊敬の念を集めて意のままに操り、恒久的な世界の平和を実現させようとする人物。個人的な感情に従い動く主人公と対極に位置する悪役をぶつけることで、物事の本質が浮き彫りになってテーマを深めやすいのではないかと思います。まあこれについては置いといて、話を先に進めましょう。

復讐を肯定するか否定するか。復讐譚における作品の方向性を左右する問い掛けに対して、竹良実先生は安易に復讐を否定することはしませんでした。人を殺めるとはどういうものかを考え抜き、登場人物にもその意味を理解させた上で、エラにエーデルガルトを殺させる。エラはクラウストルム修道院で様々な人達と知り合い、その人達から託された幾つものを胸に残して戦いましたが、エーデルガルトを殺すという当初の目的は最後までぶれませんでしたね。最終巻で人を殺してはならないといきなり変な事を言い出さないのはエラらしくて、その辺の行動の一貫性は竹良実先生が作品に真摯に向き合っているように思えて良かったです。


目的の為に手を汚せるエラとエーデルガルト
作中でも似ていると評されたエラとエーデルガルト。優れた知性と精神を併せ持つ両者の異なる点を述べる際に、真っ先に思い浮かぶのは痛みを知るか否か。エラは母親から人の命が掛け替えのないものであること、人が死ぬ痛みを忘れてはならないこと身を持って教えられています。

相手の立場を考える心があるから、ジビレから自分に復讐する権利は奪い取りませんでしたし、処刑人を勤めた時も相手に生き延びる機会を常に与えていました。自分の復讐の邪魔にしかならない愚行と知りながらも止めません。これは他者に対する優しさ、そして自分に対する厳しさであると言えるでしょう。人を傷つける罪を犯した自分が安全地帯に逃げることは、決して許されないという倫理観がエラにはある。そこが他者を影武者にして死なせようと気に留めないエーデルガルトと異なるところ。

痛覚が無い為か人が死ぬ痛みに対してもエーデルガルトは酷く鈍い。エラの様に目の前の一人の行く末を真剣に心配する姿は見られません。もしも彼女に痛覚があって人の痛みが分かる人になっていたとしたら、今と違う形で人類の救済を志していたかもしれないですね。ただし痛覚が普通に機能していた場合、バチカンで拷問された日に精神が壊れていた可能性は高い気はします。大勢から尊敬されるエーデルガルトのカリスマも薬物を用いた奇跡と同様に、痛覚麻痺に由来する偽物の屈強な精神力で演出された部分がありますから。


自身の復讐に正義を与えないエラ
これまでエラは復讐したと述べてきましたが、厳密に言えばエラの復讐ではありません。復讐とは受けた傷を返すことであり、エラはエーデルガルトから直に傷付けられた訳ではありません。だからエラが行使するのは自身の意思で行われる暴力。エーデルガルトの殺害は大勢の人々の命を救うことに繋がる英雄的行為ですが、エラは自分に与えられる栄光はそこに辿り着くまでに自分が殺した人達に与えられるべきものであり、自分の暴力を悪を裁く善として正当化することはしませんでした。

あくまでアンゲーリカを殺したエーデルガルトを許せないから殺そうとする。その罪は決して軽くしていいものではない。殺した罪を購う為に自分が殺されることも受け入れる。この様に考えられる人は世の中に多くはいないでしょう。人は物事を自分の都合の良い方に解釈する生き物。例えばいじめの問題を見ても加害者は虐められる側にも落ち度があるなど、自分の罪を軽くする言い訳をするものです。

罪悪感から逃れる為に責任を他者に押し付け、正義を騙り自身の蛮行を覆い隠す。この辺の解釈の問題と宗教の結び付きは特に強く、宗教はエーデルガルトがしたように人間を盗みも働かない善き人に導きますが、解釈の仕方によっては侵略や差別を正当化したい人達から罪の意識を簡単に奪い取る。キリスト教徒によるアメリカ大陸の侵略もその一つ。最終回で金を奪いに森の奥に来たような人達が、聖書を良い訳にして残忍な行為を繰り返す。

他者の尊厳を奪いながら、それを悪い事であると微塵も感じない。思考停止して自分の行為は絶対の正義であると信じていられる。そうした罪を罪と思わないのは楽な生き方でしょう。エーデルガルトも大勢の命を救えるのであれば、目の前の小さな命が費えることに心を痛めません。しかしエラはその様な傷を癒す幻想に逃げ込まず、誰に何を言われても犯した罪から逃げませんでした。

人が死ぬ痛みを忘れない人でいて欲しい。エラにはアンゲーリカに託されたその願いがあるから、自分の心が痛むとしても罪と向き合い続けます。恐らくアンゲーリカを助ける力が足りなかったエラにとって、その教えを守り通すことが尊厳を奪われた彼女を生かす唯一の方法なのだと思います。エラの人を殺める行為は決して許されないとしても、自分の罪を全て受け止める在り方は美しい。

それにしても「辺獄のシュヴェスタ」は本当に素晴らしい作品でしたね。幅の広い知識や敵を欺く心理戦など見所は色々とありますが、一番の見所は何と言っても困難に立ち向かうエラ達の勇姿でしょう。エラに影響されて次第に変わる仲間達も魅力的で、クラウストルム修道院に来た頃は愚図で鈍間で足を引っ張るだけのヒルデが、最終巻で知恵と勇気を振り絞りながら仲間を助ける姿を見た時は涙が出そうになりました。

豊富な知識を武器にする作家は、自身の知識を作品に詰め込んで読者に知的な快楽を与えられる反面、知性に寄り過ぎる為か読者の胸が熱くなる展開は苦手という場合は少なくないのですが、竹良実先生は知識と情熱の両方を漫画に込める力を持つ作家であると「辺獄のシュヴェスタ」を読んで思いました。竹良実先生みたいに大多数の作家が手を付けていないニッチなジャンルで、大衆の心を引き付ける人間ドラマを描ける作家は希少なので次回作が楽しみです。