アニメごろごろ

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覚悟を決めた大人達のいる「シン・ゴジラ」に碇シンジは必要とされない

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ ([バラエティ])

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ ([バラエティ])

シミュレーション映画としての「シン・ゴジラ
東日本大震災を連想させる大規模破壊を行うゴジラが現れた時、日本はどの様な対応するのかを重点的に描いた「シン・ゴジラ」。シミュレーション映画としての側面が強い作品なので、通常の娯楽作品には珍しい演出や展開が随所に見られます。具体的な例を挙げると昨今は観客が感情移入しやすいように登場人物の境遇や葛藤を丁寧に見せるのが主流ですが、ゴジラの対処に追われる大勢の人達を描いた群像劇であるこの作品では、登場人物のドラマは殆んど展開されずに各々が必死に仕事をこなすうちに幕は閉じます。

作中には家庭と仕事のどちらを優先するのかに悩んだ方も中にはいたかもしれませんが、そうした個人的な事情は外に出さずに飲み込んで全員仕事に打ち込むんですよね。ゴジラに立ち向かう人達の行動を様々な角度から描き出す為には、個人的な事情を見せるのに時間を取られる訳にはいかなかったのだろうと思います。主人公の内面を見せる事に重点を置いた「新世紀エヴァンゲリオン」とは正反対、キャッチコピーに「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)」とある理由が非常に分かる内容でした。

シン・ゴジラ」が登場人物のドラマを見せない受けの悪そうな作品にも関わらず沢山の観客を引き込んだ要因は、休む暇の無い怒濤の展開と全力で仕事に取り組む登場人物から伝わる緊張感も大きいと思います。「ゴジラ(1984)」や「グエムル」の展開の仕方を起承転結とするなら、「シン・ゴジラ」は転々転々という勢いで次から次に新たな問題が起きます。ゴジラは物語開始直後から姿を見せて暴れ回り、一旦行方を眩ましたかと思いきや間を置かずに再上陸、進化したゴジラは想定外の力で自衛隊を圧倒します。主人公達は苦労の末にゴジラの倒し方を発見しますが、今度はそれを実行に移す為の時間稼ぎに外国との交渉に頭を悩ませる。

この想定外の困難が連続する展開に加えて尺の都合から早口気味な登場人物の会話、大勢の登場人物に見せ場を与える群像劇故のカットの細かい切り替えの多さが、一刻を争う非常事態の緊迫した雰囲気を強調していました。「シン・ゴジラ」は唯でさえ展開と台詞が速いというのに、観客が初見では覚えられない数の名前と役職名を表示して、専門的な用語が説明も無しに飛び交いますから、こちらも登場人物同様に集中しないと話に置いていかれてしまいそうですね。

ところでゴジラが東京を襲いに来るのは何故なのかと作中で突っ込まれていましたが、あれをお約束で片付けないで深読みするのであればゴジラが東京を襲うのは、ゴジラが首都直下型地震のメタファーだからとする見方もあると思います。東日本大震災では大した被害を受けていない東京が、地震に襲われた時にどれ程の被害が出るのか、その恐怖を観客に教える為にゴジラは現れたのではないでしょうか。


大いなる力には大いなる責任が伴う
ゴジラを捕獲するのか討伐するのかに悩んで時間を浪費した末に、自衛隊に討伐命令を下した日本政府はゴジラが攻撃される寸前、逃げ遅れた国民がいるとの報告を受けて攻撃を一時中断させます。この時点で攻撃していれば被害は減らせたかもしれませんが、万が一にでも国民を巻き添えにすると責任問題にもなるからそれは難しい。国民を守る責任を負う立場だと安易な行動をしない為にも決断が遅れてしまいがちです。

こんな風に政府の対応が遅れる時にはウルトラマンがいるといいですよね。ウルトラマンは日本国民に何も責任を負わないので、逃げ遅れた国民がいようと怪獣退治に励めますし、怪獣を投げ飛ばしてビルを破壊しても知らん顔が出来ます。この様に無責任な部外者は背負うものが少ない為に行動も速いですが、政府にはそんな身勝手な真似は行えません。

巷では失敗しても構わないから行動しろといったアドバイスが溢れていますが、それが適用されるのは若者であって責任が重い政府はそれを真に受ける訳にはいかない。その場の勢いで「行きなさい、シンジ君。誰かの為じゃない、あなた自身の願いの為に」と言ってニアサードインパクトを起こさせてからでは駄目なんですよ。失敗しない為に慎重に考えてから行動しなければなりませんが、思考に時間を奪われて行動が遅いと逆に取り返しのつかない事態に陥る。難題に対してはどちらを選んでも何かしらの過ちが起きるのは避けられません。

物語的にはゴジラを討伐するのが正解なので、それを迅速に行わない政府に不満を持つ観客もいると思いますが、現実ならゴジラに攻撃するのは熊に遭遇した時に石を投げる様な愚行の場合もありますし、何が最善の判断なのかなんて誰にも分らないんですよね。「シン・ゴジラ」はそうした責任を問われる厳しい状況の中でも、問題を解決しようと戦い続ける大人の姿が魅力的でした。

決断して行動するだけなら馬鹿でも出来ます。その先にある責任を取る事まで行えるのが真の政治家。総理も臨時総理も優柔不断で頼りない姿も見られましたが、逃げずに責任を取るという汚れ仕事まで遂げたのは立派でした。あれが「東のエデン」で滝沢が話していた頭の良い連中のアイディアを実現する為の損な役回りを引き受ける奴ですね。

東のエデン (文庫ダ・ヴィンチ)

東のエデン (文庫ダ・ヴィンチ)


最初からエヴァに乗る覚悟のある者だけが乗ればいい
最初から最後まで諦めずに戦い続ける組織人が印象的な「シン・ゴジラ」には、「エヴァ」のシンジみたいに事件に巻き込まれて覚悟も無いのに戦わされた者はいません。組織に属するプロフェッショナルだけでゴジラを止める。これを少年少女に英雄的な活躍と犠牲を強いる「トップをねらえ」や「エヴァ」の庵野秀明監督が作り上げたのは興味深い。

90年代頃からの子供向け作品は「エヴァ」や「ナデシコ」など主人公が突然事件に巻き込まれ、望まない形で半強制的に戦わされる展開が目立ちました。その戦いの中での出会いや別れが主人公を精神的に成長させ、最初は巻き込まれただけの主人公も途中からは自分の意思で戦う決意をします。これは海賊王になるなどの強烈な目的意識を持たない人間でも、何かの切欠があれば変われるのだという希望を視聴者の子供に抱かせますが、現実は誰もがそんな簡単には変われるとは限らないです。

シンジみたいに適性の無い者を戦わせると心に傷を負わせる場合もありますし、意欲はあるけど能力が不足した者を戦わせると無駄死にする場合もあるので、最初から誰も巻き込まずに問題を解決出来るなら、それに越した事は無いと思うんですよね。そうした意味で「シン・ゴジラ」の組織の在り方は好みでした。日本の命運を左右する戦いを英雄的な少数の人間を任せずに、自分の意思で組織に属した者達が組織としての力を発揮して行おうとする。このシンジを必要としない「シン・ゴジラ」を生み出した庵野監督が「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」でどこに向かうのかは気になります。


組織を信じられる庵野秀明監督
ここ20年位の組織を題材にした作品では「機動警察パトレイバー」や「踊る大捜査線」など上層部が無能や黒幕で現場の人間が苦労する展開が目に付きました。これには現実の権力者による汚職が創作にも影響を与えたとか、単純な善悪二元論に飽きて外部の敵だけを悪とする見方に疑問が出てきたとか理由は色々とあるのでしょう。細かい理由に関してはとりあえず置いといて、日本では長い間組織を肯定的に描き難い空気はあったと思うんですよね。

それらと比較すると「シン・ゴジラ」の組織は意外と機能して腐敗まではしていませんでした。出世とは縁の無さそうな変わり者が奮闘する場面もあるものの、政治家として順調に道を走る矢口が主導権を握り事態の収拾を図るところを見ると、庵野監督はまだまだ日本の組織に絶望していない印象を受けます。個人的には「ゲート 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり」並みに肯定的に描かれていたと思います。この調子だと「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」は「ぼくらの」みたいになる気配が濃厚。

逃げたら駄目なんて言われない社会
ゴジラという虚構が相手とはいえ日本の妙に現実味のある対応を見ていると、自分なら似た様な事態が起きた時に何をすればいいのか、真面目にそれを考える観客も中にはいるかと思いますが、考えたところで大多数の国民には指示に従い避難する事しか出来ません。ゴジラが凍結した後なら災害復興のボランティア活動とか誰にでも行える事はあるんですけどね。日本対ゴジラと言いながら国民が逃げるばかりなのは、格好悪いかもしれないですけどこれも大切な事です。大災害相手に私達は無力ですからゴジラを撮影しようとしないで、自衛隊等の専門家の足を引っ張らない様に避難して後は任せる。

作中ではゴジラが現れていない地域の住民は普段通りに呑気な生活をしていましたが、あれもある意味では正しい態度だと個人的には思います。自分達には関係の無い話だと冷めた態度を取るのはどうかと思いますが、無駄な正義感や好奇心や不安感を出して余計な事をされるとそれはそれで迷惑しますからね。政府や官僚がどうでもいい問題に頭を悩ませずに済むように、安全な地域の住民は何時もと変わらない日常を送る事にも意味はあるんです。

お国の為に一丸となって戦うなんてのは時代遅れですし、国民に求められるのは困難に立ち向かう気概では有りません。必要なのは適度な危機感と冷静な判断力と政府を信じて任せる事だと思います。それさえあれば後は覚悟のある様々な分野の専門家が全力で取り組み解決するはず。そう思わせる程の日本の組織の頼もしさを「シン・ゴジラ」からは感じました。


牧悟郎に試された人類
この作品で描かれた日本の組織はゴジラにも負けない強さを見せましたが、正確に言えば独力でゴジラを止める程の力は持ちません。アメリカからはゴジラに関する情報や無人機を提供してもらい、終盤は世界中からスーパーコンピューターを貸してもらいました。他国の協力が無ければ日本は立ち直れない大打撃を受けたのは間違いないでしょう。そうなる位なら頭を下げて幾らでも力を借りた方がましと言いたいところですが、大抵の場合は他国に協力を仰げば見返りを要求されるので、安易に手を借りる訳にもいかないのが難しいですよね。

他国に食い物にされない様に協力を要請して対価を用意しつつも、国益の為に絶対に譲れない部分は譲らない方向で交渉しなければなりません。自分も相手もお互いに国益の為に譲れない部分がある為に交渉は難航しますが、目先の利益のみに気を取られているとゴジラがさらなる進化を遂げて日本どころか世界を滅ぼしかねません。

そうなる前に国益を無視してでも世界が手を結ぶかどうか、作中ではそれが他国がスーパーコンピューターを日本に貸す事が出来るかどうかという形で試されました。日本に情報を盗まれる事は無いだろうと信じる心。それが相手にあるおかげで日本は解析の方が間に合い、核攻撃を行わせる前にゴジラを凍結させる事が叶いました。日本の交渉能力や研究者の知恵も必要とされましたが、最後に必要とされたのは自分が損をしても他者を助けようとする人間の善意。

多分失踪した牧博士は善意があればゴジラを止められると予想していたでしょう。逆に言えば折鶴などのヒントをどれだけ与えられても善意が無ければゴジラを止められない。牧博士がどの様な結末を望んでいたのかは読めませんが、日本と世界が生き残るに値するかを試そうとする意図はあったのではないかと思います。