アニメごろごろ

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努力と根性から協力と個性の時代に突入したスポーツ漫画

アイシールド21 (1) (ジャンプ・コミックス)

アイシールド21 (1) (ジャンプ・コミックス)

スポーツ漫画の向かう先
スポーツ漫画は半世紀の時を経て、その様相を大きく変えることになりました。昔は「イガグリくん」や「バット君」など日本で盛んな競技であった柔道や野球を描いた作品の数々が世に送り出されていましたが、次第にサッカーやバスケとそれまで注目されていなかった競技を取り扱うようになり、今では競技ダンスに競技かるたとマイナーな競技も次から次へとアニメ化するようになりました。

スポーツ漫画の重要な変化として、題材に選ばれる競技の多様化が挙げられますが、その他にも「キャプテン」で描かれた倒れるまで諦めない努力と根性の重視から、「ハイキュー」で描かれたチームメイトとの協力と各々の個性の重視という作風の変化も見られました。それではここからスポーツ漫画がどのような経緯で協力と個性を描くに至るのか、具体的に作品を挙げながら歴史を追っていきます。

叩いて伸ばすスポ根時代のトレーニング
60年代から70年代のスポーツ漫画の特徴はあまりにも厳しいトレーニング。その代表例は66年「巨人の星」にある星飛雄馬が父親に装着させられた大リーグボール養成ギブス。この時代は虐待や体罰と何も変わらないトレーニングが、強くなる為に欠かせないものとして当たり前の様に描かれていました。早実高校野球部の地獄の猛練習は飛雄馬も驚愕する程であり、監督の殺人ノックはボールが見えなくなる夜間も行われ、反吐を吐いた部員が現れても、体調を心配するどころかグラウンドを汚すなと叱り付ける有り様。

68年「アタックNo.1」ではコーチが疲労で立ち上がれない部員にレシーブの練習と言って容赦なくボールをぶつけ、73年「エースをねらえ」でもコーチは試合に負けた罰としてグラウンド100周を強制します。この時代は素振り1000回に腕立て伏せ3000回とトレーニングの回数に力を入れますが、そのトレーニングが具体的に身体の何を鍛えて、どの様な形で試合に活きるのかは細かく語られません。そんな意味があるのか分からないトレーニングの代表格が、膝を痛めるなど身体に悪い事で有名なうさぎ跳び。

アタックNo.1 (Vol.1) (ホーム社漫画文庫)

アタックNo.1 (Vol.1) (ホーム社漫画文庫)

個人的には闇雲にバットやラケットを振らせても、上達するどころか逆にフォームが崩れて変な癖が染み付いてしまう気がするのですが、そういう疑問は作中で無視される場合が少なくありません。トレーニングは読者へのインパクトを重視して質より量で決まる。主人公達を指導するのは有名なコーチのはずなのに、専門的な知識を交えた参考になる意見は殆んど口に出さず、異常と思える量のトレーニングを課して身体に教え込ませるばかり。基本的に習うより慣れろ。

その過程で精神も肉体も耐えきれずに退部を申し出る部員も出てしまいますが、それに対して部長やコーチはやる気が無い奴は辞めてもいいとあっさり切り捨てます。72年「キャプテン」ではキャプテンの丸井が始めたスパルタ合宿によって大半の部員が脱落していきました。

今時のスポーツ漫画は読者に身近な才能も根性も持たない平凡な部員を用意して、その部員の成長も丁寧に描写する傾向が見られますが、スポ根全盛期にはヒーローになれないタイプの部員は早々に脱落する展開が目に付きました。


無駄な努力ではなく努力に無駄がある
努力と根性があれば勝てる。この言葉は誰にでも勝利するチャンスがあるという夢を抱かせる反面、勝利しないのは本人の努力と根性が足りない所為だと冷たく突き放すものでもあります。また勝利に必要な根性を身に付けさせるという立派な目的があれば、戸塚ヨットスクールで起きた人を人と思わない暴力を正当化する危険も孕んでいます。

弱小校の暴力は問題にされても、強豪校の暴力は指導の一言で済まされてしまう。今時の若者には避けられそうな強者の理論が、当時はそれなりの層に受け入れられていたようです。

その背景には64年に開催された東京オリンピックにおいて、精神論を全面に出した練習方法で成果が出たこと、そして55年から73年まで続いた高度経済成長があると考えられます。高度経済成長期は今みたいに週休2日が常識ではなく仕事は大変でしたが、その苦労に釣り合う昇給が社会の構造的に約束されたようなもので、年々日本が物質的にも豊かになっていく実感が得られた状況も影響して、努力は報われるという価値観が世間に浸透したのでしょう。

キャプテン (1) (集英社文庫―コミック版)

キャプテン (1) (集英社文庫―コミック版)

しかし上記の体育会系にありがちな努力と根性を美徳とする風潮は、日本社会の成熟と停滞に連れて力を失い始めました。世の中の大多数は仕事でも家庭でも何でも物事が順調に運んでいる内は、その内部に多少の問題を抱えていることに気が付いていたとしても、それは自分が我慢すれば済む話と考えて積極的に問題の解決に取り組みません。

ところが物事が行き詰まるようになると改善を求める気運が高まり、それまで軽視されてきた問題に注目します。成長の鈍化は望ましくないと論じられがちですが、現状の問題を見つめ直す意味で良い面もあるんですよね。そうした日本社会の変化の影響を受けたのか、80年代からはスポーツ漫画の精神論に疑問を感じる読者もじわじわと増えていきます。

先程、努力と根性の支持が弱まる背景に努力が報われない経済的な状況を挙げましたが、それ以外にスポーツ科学の発展と子供の人権が尊重される時代の変化も忘れてはならないでしょう。記事の後半で触れるので詳しい話は省きますが、これらがスポーツ漫画から非効率で苦行に等しいトレーニングを排する方向に推し進めた部分はあると思われます。

柔道部物語(1) (講談社漫画文庫)

柔道部物語(1) (講談社漫画文庫)

85年「柔道部物語」にはまだまだ体育会系のノリが残されており、柔道部伝統の後輩いびりのセッキョーが行われていました。新入部員は空気椅子の状態で歌わされたり、20分以上も畳の上でうさぎ跳びをやらされたり、強制的に坊主頭にされたりという有り様でした。

主人公の十五はこれに不満を抱きますが、途中から文句を言っても仕方が無いと思い始めたのか、その逆境を耐え抜いて自分が弱くないことを証明する方向に全力を出して、セッキョーは文化として受け入れながら先輩と普通に接するようになります。

後のスポーツ漫画でしばしば見られた不良集団が主人公の影響を受けて、立派なスポーツマンとして更正する方向に動きませんでした。この部分を抜き出して書くと努力と根性の時代から、まるで進歩していないと感じられるかもしれませんが、柔道部以外の人達からは彼等の伝統が時代遅れであることが指摘されています。

三五達が合宿で寝食を共にした強豪校は練習中に水も飲まず、尋常では無い量の鍛練を積む姿が描写されますが、三五達は強豪校の真似をして強くなるわけではありません。

厳密に言えば真似をしようとするのですが、顧問の先生が努力を嫌がる天才型で人に厳しく教えられない為に、極端にトレーニング量が増えることはありませんでした。三五はそんな顧問の技を受ける中で柔道のコツを学び、新人戦では才能を開花させ格上を相手に勝利します。三五は帰宅後も自主的にトレーニングしているとはいえ、血が滲む努力のおかげで勝てたのではないところに時代の空気を感じます。


努力が封じられた時代を生き延びる術
80年代には努力と根性が時代の本流から外れて、死ぬ気でトレーニングを続けていれば勝てると考える作品は少しずつ減り始めます。休息も大切なトレーニングである認識が世間に広まり、現実の部活におけるトレーニングも改善の兆候が表れるのですが、この方向に進むとスポーツ漫画に天才型の主人公が溢れる問題が発生してしまいます。

従来のスポ根であるなら試合で主人公が勝利した要因を、朝から晩まで寝る間も惜しんでトレーニングに励んだおかげであるとはっきりと言えました。仮に主人公が体格や才能に恵まれていないとしても、周囲が狂気を感じる程の凄まじい努力で実力差を埋める。しかし時代的な圧力を受けて主人公が常識の範囲内のトレーニングしか行わなくなると、努力したから勝てたなんて言葉に説得力は生まれません。

自分の限界を超えない程度の努力なんて強豪校なら当たり前の様に行っていますからね。主人公が人と同じ位の努力で試合に勝てたとするなら、それは潜在的に才能があるからということにされてしまう。

スラムダンク (1) (ジャンプ・コミックス)

スラムダンク (1) (ジャンプ・コミックス)

特にスポーツを始めて数ヵ月で全国大会に出場して活躍する主人公では、作者が努力型に描いたつもりであるとしても、読者の視点で見れば天才型にしか思われません。この話を聞いた方の中には主人公が天才に見える事態を避ける為、入部から数ヵ月で全国大会に出場させるのではなく、せめて2年や3年に進級してから出場させればいいのではないかと思う方もいるでしょう。

しかし作中で何年も経過する展開は、主人公の先輩達を中心に人気キャラが途中で卒業する欠点を抱えており、キャラの人気が重視される時代を生き抜くには厳しいと言わざるを得ません。「キャプテン」みたいに途中で主人公が変わる展開は不可能に近いでしょう。最近は先輩達の卒業と同時に人気が急落することを作者も編集者も理解しているのか、連載が長期化して20巻を越えて展開に無理が生じても、頑なに学年を上げようとしない作品は珍しいものでもありません。

閑話休題。天才の物語が別に悪い訳ではないのですが、最初から圧倒的に強かったり瞬く間に上達して楽々と勝利する主人公しかいなければ読者も飽きてしまいますし、その系統の主人公に感情移入が困難な読者を置き去りにしてしまう。

時代が求める主人公像が「新世紀エヴァンゲリオン」のシンジみたいにヒーローになる勇気が足りない平凡な方に傾き始めるので、それに合わせてスポーツ漫画も将来的には天才型でも努力型でもない新時代の主人公を考えていかなければなりませんでした。

そこでは主人公を勝ち続けさせると同時に、主人公を大して強くないように演出する高度な技術が作者に求められます。とはいえ努力と才能に代わる勝利の鍵は易々と見つかるものではなく、80年代から90年代にかけてのスポーツ漫画は、スポ根が支持された反動によるものか81年「キャプテン翼」に代表される天才の物語が注目を集めていました。

タッチ 1 (小学館文庫)

タッチ 1 (小学館文庫)

81年「タッチ」の上杉達也はボクシング部から野球部に移籍してから、瞬く間に上達してチームを甲子園に導いた本物の天才。89年「DEAR BOYS」の哀川和彦はバスケ選手として背が高い方ではないものの、過去にインターハイ優勝常連校の天童寺高校でキャプテンを任された実力者。

90年「シュート」の田仲俊彦は必殺の右や幻の左と呼ばれるシュートを持ち、物語が始まる前から全国大会出場の経験を持つ一流選手。94年「MAJOR」の茂野吾郎はピッチングとバッティングの両方に天賦の才を持ち、弱点は無茶なプレーを繰り返すことによる身体の故障くらいのもの。

Major―Dramatic baseball comic (1) (少年サンデーコミックス)

Major―Dramatic baseball comic (1) (少年サンデーコミックス)

ご覧の様にスポーツ漫画の流行は天才の物語に移り変わりました。90年「SLAM DUNK」の桜木花道は天才と呼んでいいのか悩みますが、バスケの技術が何も無い状態から数ヵ月でチームに欠かせない選手に成長しましたし、桜木は自分で自分を天才と呼んでいることですし、一応は天才の物語に分類しておきましょう。

勿論、この系統の物語以外にも「ROOKIES」や「ホイッスル」など人気作品はありましたが、80年代から90年代に大きな存在感を放っていたのは、努力より才能の比重が勝る上記の作品と言えるでしょう。

そして20世紀が終わりを迎える99年には、数々の伝説を残した「テニスの王子様」が連載開始します。「テニスの王子様」はネット上では笑い者にされていますが、漫画の舞台化を流行させるなどのメディアミックスにおける貢献度は馬鹿に出来ません。

主人公の越前リョーマは一般的なスポーツ漫画のライバルになりそうなクールなキャラという極めて珍しいタイプなのですが、このようなクールなキャラを主人公に配置しながら大人気になったスポーツ漫画は「テニスの王子様」以外に思い浮かびません。少なくとも少年漫画の文脈に沿った作品の中には無いでしょう。その点でもスポーツ漫画の歴史を語る上で外せない作品。

テニスの王子様 (1) (ジャンプ・コミックス)

テニスの王子様 (1) (ジャンプ・コミックス)

個性が尊重される時代のスポーツ漫画
テニスの王子様」で天才の物語は一旦沈静化、00年代からは新しい形のスポーツ漫画が台頭します。その先陣を切った作品が2002年に連載開始した「アイシールド21」。主人公の小早川セナは臆病者で貧弱、パシリ生活で鍛えられた足の速さだけが取り柄の少年。

この作品の最大の魅力はセナの様に一芸に秀でた泥門デビルバッツの選手が、司令塔の蛭魔が編み出す奇策と各々の特技を武器に、総合的な能力では遥か上に立つチームを次々に打ち破る姿にあります。強敵に真正面から挑んでも勝ち目が無いのであれば、相手を自分が勝てる土俵に引き摺り込む。「アイシールド21」は当時の空気と相性が良い作品でした。

ナンバーワンよりオンリーワン。この時代の教育は成功したのか失敗したのかは置いておくとして、画一的な教科書に記された知識を詰め込むの他に、子供に様々な経験を積む為の十分な時間を与えて自発的な学習を促すなど、一人一人の個性を尊重する方針が最も強く表れていました。

誰にでも得意不得意はあるものなのだから、完璧を求めるよりも自分の得意なことを伸ばしていき、それを強力な武器にして世の中を生き抜けばいい。バトル漫画でも個性が重視されていき、使用される能力はエネルギー弾の放出や炎や水を操る類から、相手をメガネ好きに変える能力といった能力者の性格や境遇を反映したものになり、その使い道が分からない変な力で強敵を翻弄する様が人気を博していました。

うえきの法則 14 (14) (少年サンデーコミックス)

うえきの法則 14 (14) (少年サンデーコミックス)

死ぬ気で努力して相手より強くなるのではなく、強くなれなくても機転を効かせて勝利を掴む。これが00年代の漫画の特徴に挙げられます。少し前までのスポーツ漫画は先述した通り、何でもこなせるオールラウンダーの才能に恵まれた選手が活躍しましたが、段々と特定の分野に特化した不器用な選手がチームで長所を活かして活躍するようになるんですよね。

03年「おおきく振りかぶって」の三橋廉も最初はコントロールが抜群に良い点の他に見所が少ないピッチャーでしたが、阿部隆也というデータを基に相手の弱点を突く頭脳派のキャッチャーと組んでからは凄まじい成果を出し始めました。三橋にとって今まで使えないと思われてきた自分の投げるボールの使い道を教えてくれる阿部は理想的なキャッチャー、阿部にとっても自分が望んだコースに寸分の狂いもなくボールを投げる三橋は理想的なピッチャー。コンビを組んだ時の力は足し算ではなく掛け算の様に跳ね上がる。

おおきく振りかぶって (1)

おおきく振りかぶって (1)

ちなみに三橋と阿部が組んで行っていること独力で成し遂げる男が、野球版「アカギ」と呼ばれている98年「ONE OUTS」の渡久地東亜。身体能力はプロの世界で通用する水準に達していませんが、観察力と話術を武器にバッターの心の隙を突いて打ち取ります。この作品は連載開始から10年した後に急にアニメ化が決定するのですが、その背景には「アイシールド21」などの弱者が頭脳を駆使して勝ち上がる漫画の流行も多少は関係しているのかもしれません。

それでは「おおきく振りかぶって」に話を戻します。この作品の大きな特徴にはしっかりとした理論に基づいたトレーニングも挙げられます。従来のスポーツ漫画は作者の知識不足もあって、選手の肉体や精神に負担を掛けるトレーニングが効果的であるとされがちでしたが、「おおきく振りかぶって」ではあるトレーニングが肉体や精神にどういった効果を与えるのか、大学で教わる専門的な理論に踏み込みました。選手に対しては倒れるまで身体を動かさせる非効率な指導を行わず、頭を動かして上手くなるにはどうすればいいのか考えるように指導する。

そうして主人公達のトレーニングの質を引き上げることによって、短期間で結果を出す展開に説得力が自然と生まれるようになります。休息も大切なトレーニングの一環であると理解されて、過度なトレーニングが禁止される時代の中で相手の一歩先を行く為には、トレーニングの中身を大幅に改善していかなければなりません。

この成長の仕方を理論的に説明する分野における最前線を進んでいたスポーツ漫画が07年「ベイビーステップ」。主人公の丸尾栄一郎が一歩ずつ成長する故に地味な作品と評されてしまいますが、素人がプロ選手に進む迄の過程をリアルに描いた点で「ベイビーステップ」を越えるスポーツ漫画は多くはありません。

ベイビーステップ(1) (講談社コミックス)

ベイビーステップ(1) (講談社コミックス)

皆が憧れるヒーローになれなくてもいい
仲間と協力する主人公が注目された00年代。その最後の年に姿を現した「黒子のバスケ」の黒子テツヤはサポートのプロフェッショナル。生来の影の薄さに視線誘導の技術を合わせて、周囲に気が付かれないように仲間にパスを回し続けます。基本的にスポーツ漫画の主人公は初登場時に冴えない選手であっても、才能を開花させるなどしてエースに成長するのが、物語的に盛り上がる王道の展開であると思います。

そんな中で黒子は最後まで自分から積極的にシュートを打たず、あくまでエースである火神を輝かせるサポート役に徹していました。そこが「アイシールド21」のセナや「おおきく振りかぶって」の三橋とは違います。

この作品で気に入っているシーンは黛と黒子の勝負。名前が表しているように「黒子の代わり」を務める黛は、黒子と同様に影が薄くパスに長けており、それに加えてバスケ選手としての能力は黒子以上。黒子は自身の上位互換と呼べる黛に苦戦させられますが、黒子にある一点において黛を超えていました。それはバスケ人生の中で仲間のサポートをしてきた時間。詳細は省きますが、黒子と黛の対決は自分が試合で活躍する欲求を抑えて、影で在り続けようとする意識の差が明暗を分けるんですよね。

自分がエースとして活躍して喝采を浴びる夢が叶わなくても、チームを勝利に導けるのであれば一向に構わない。孫悟空やルフィといった少年が憧れるヒーローを世に送り出してきたジャンプから、仲間を助ける為に影の道を己の意思で選んだ主人公が現れた。そこには大きな意味があるのではないでしょうか。黒子は本物の天才にも努力の天才にもなれませんでしたが、自身に与えられた役割を精一杯やり遂げる姿には、その辺のヒーローにも決して劣らない魅力がありました。


何度でも姿を変えて現れるスポ根
スポーツ漫画は長々と説明してきた通り、努力と根性から協力と個性へと時代の潮流に乗って作風の舵を切ってきましたが、努力と根性は注目されなくなるだけであり、完全に消滅したわけではありません。スポ根の思想は脈々と受け継がれていき、それはスポーツ漫画以外の誰も考えていなかったところに表れることになりました。

スポ根の思想を受け継いだ作品、それが「アイカツ」です。過酷なトレーニングを己に課してひたむきに頑張るアイドル達は、大勢の女児や成人男性の心を掴んでいきました。自分で衣装を選んでステージに立つところには、個性が尊重されて選択の自由が認められる現代の作品らしさを感じ取ることが出来ますが、関係者がインタビューで答えているように努力して成功するところには、明らかにスポ根の血が流れています。

ところで「アイカツ」がスポ根的な雰囲気を醸し出している理由ですが、これは女児を楽しませる女の子の物語を考えた末に偶々そうなっただけと考えるべきなのでしょうけれど、個人的にはアイドル科学の発展が遅れている状況も影響していると思っています。スポーツに関しては記事で触れた通り、長年の研究により効果的なトレーニング方法が色々と編み出されました。それに対してアイドルの成長する方法は成功者が語るコツの域に留まり、スポーツと比べるとまだまだはっきりとしたことは判明していません。

人気のアイドルと不人気のアイドルは何が違うのか。歌唱力を磨けばいいのか、ダンスが上手になればいいのか、ファンと交流を深めればいいのか。そもそも人気のアイドルの定義が曖昧、最終的な目標が不明瞭なので手段も分からない。明確なルールの中で対戦相手を倒し続ければ済むスポーツとはその辺が違います。そんなアイドル界を生き抜くアイドルはセルフプロデュースで試行錯誤というか迷走した挙げ句、奇抜な格好をして知名度の向上を図るなど、視聴者を笑わせる滑稽な行動をしてしまうこともあります。本人達は真面目に取り組んでいるつもりでもギャグにしか見えない。

具体的な方法論が構築されていない状況で、アイドルが成長するにはとにかく行動あるのみ。それが上で述べたアイドルの努力が明後日の方向に向かいギャグに見える現象、そして半世紀前のスポーツ漫画で描かれた根性で乗り切る無茶なトレーニングに繋がるのでしょう。「ラブライブサンシャイン」にもスポ根的な傾向は表れており、Aqoursは大会で勝ち残る方法が見えない中で焦り、過去に怪我人を出した大技の練習を始めます。

顧問の先生がいたら禁止されそうな大技が本当に必要なのか、そのリスクとリターンが釣り合うのか大して考えない。結果的に大技が成功して物語は良い方に向かいましたが、一歩間違えれば首の骨を折る大惨事になるところでした。最近のスポーツ漫画よりアイドルアニメの方が、実は怪我や披露で倒れる割合が高い気がしてきます。

仕事の幅が広くて求められる能力も多岐に亘るアイドル。ダンスにトークにルックスと磨くべき課題は沢山あるものの、アイドル業界はそれをしても成功する保証は無い。アイドルとしてどうすればいいのか、明確な道が見えないまま歩き続けるのは苦しいでしょう。そんな不安から少しでも逃れようとするあまり、過度なトレーニングを続けて倒れてしまうアイドルは後を絶ちません。そうした不安を持たない人気のアイドルはアイドルで、沢山の仕事を引き受け過ぎてしまい過労で倒れてしまう。それはキッズアニメでも深夜アニメでも起きています。

10年代は沢山のアイドルアニメが登場して様々なテーマが描かれてきましたが、アイドルのトレーニングや成功の手法に関しては詳しく語られていないので、そろそろアイドルアニメもスポーツ漫画と同様に自己管理を徹底して、成果を出す為の効率的な方法を考える時が来てもいいかもしれません。

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