農家出身の荒川先生の経験が活かされている「銀の匙 Silver Spoon」を読んでいると「鋼の錬金術師」や「STRAY DOG」が頭を過ります。創作物とは作者の趣味や思想や経験が多かれ少なかれ複雑に形を変えて反映されるもの。
作者の人生経験と無関係に思えるジャンルであろうと作者の顔が見える部分はどこかに含まれている為、荒川先生の人生経験を大量に取り込んだ「銀の匙」が過去作品で描かれたテーマも含んでいるのは当然の帰結。個人的に「銀の匙」は荒川先生が今まで描いてきた物語を理解する為の補助線になると考えています。
デビュー作である読み切り漫画「STRAY DOG」では、軍用犬と呼ばれる主である人間に尽くす道具として造られた合成獣のいる世界が描かれています。軍用犬は生き方を選べず主の為に生きて死ななければならないのですが、ここからは「銀の匙」の人間の都合で殺される家畜達や家業に縛られる生徒達と似たものを感じます。
生まれた時から役割を与えられ、自分の生き方を自由に決める権利を持たない。「蒼天の蝙蝠」の忍に拾われ育てられた蝙蝠丸も彼等と同様に、忍の掟に縛られて人を殺める道から抜け出せずに苦しんでいました。荒川先生はこの様な自分の人生を選ぶ事が出来ない者達に対して思うところがあるのでしょう。
「鋼の錬金術師」の最初のエピソードが単純に悪党を倒して終わらずに、他者の奇跡に縋るロゼの自立を促す終わり方になるのはそれも影響しているのではないでしょうか。何者にも縛られない自分の足がある者は自由に歩いて行けばいい。厳しさと優しさを感じる台詞ですね。
鋼の錬金術師 完全版 1巻 (ガンガンコミックスデラックス)
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生きるとは他者の命を奪い取る事を抜きには成立しません。その残酷とも思える現実から目を背けないで受け入れる。「ハガレン」はこの話が主題では無い為に分量的には少ないですが、内容としては「銀の匙」で主人公の八軒が何話も費やして悩みながら学んだ事が凝縮されています。
先程書いた命の重さと関連するのですが、エドの生き方として印象的なものの中に「殺さない覚悟」というものがあります。軍人達は厳しい戦場を生き延びる為に相手を「殺す覚悟」を持って生きていますが、それを持たない錬金術師のエドはホムンクルスやスカーとの戦闘中、相手を殺せる状況になっても殺しはしません。
エドはここで人を殺すのが怖いから殺さないなどの心理的な自己防衛の為ではない、信念に値する強い意志を持って殺さない事を決意しています。自分が相手に殺されるかもしれない場面でもそれを守り通す。その覚悟の強さは敵であるキンブリーにも認められる程のもの。
これは「銀の匙」の中で獣医が持論として話していた獣医になる為に必要なのは「殺れるかどうか」とは逆の話。殺さない覚悟と殺す覚悟は立場は違うものの、両者とも命の重さやそれを奪うことの意味を認識した上で決断する点では同じ、そこに込められた荒川先生の想いはそれ程の違いはなかったと思います。
「ハガレン」と「銀の匙」はジャンルが違いますが、命に対する扱い方など作品の根底に流れる思想は殆んど変わらないでしょう。この荒川先生の価値観というか世界認識を抑えると作品の理解も深められます。錬金術や化物が存在する「ハガレン」の世界観は読者にとって現実感が希薄なので、作中で繰り広げられる命の奪い合いも作り物に思えてしまい、それらの重さをキャラと同等の視点で理解する事は難しい。
ここで「銀の匙」で丁寧に描かれてきた命に対する見方を頭に入れた上で「ハガレン」を読み直すと、命を奪わない覚悟なんて漫画では使い古された言葉の重みを感じ取れる様になり、凡庸な作品で語られるそれとは異なる強度が生まれます。大多数の言葉に当て嵌まると思いますが、言葉の意味は相手の背景まで知らなければ分かりません。なのでもしも「ハガレン」しか読んでいない人達がいるのであれば、作品を少しでも楽しむ為にも「銀の匙」を読みましょう。
- 作者: 荒川弘
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荒川先生らしいギャグ要素も強い作品なので、ギャグ漫画として楽しむ事も出来ますが、荒川先生の価値観や経験を知ることも出来るので、「銀の匙」やその他の作品に込められたメッセージがより理解しやすくなると思います。そんな訳でファンなら読んでおくべき作品です。特に獣医を目指そうとするエピソードは必見。
最後に余談になりますが、荒川作品では家畜、合成獣、ホムンクルス、フランケンシュタインといった人間の手で生み出された生物が登場する頻度が高めなんですが、これなんかは家畜を育てていた影響が出ているのかなという気がします。フランケンシュタインが登場する「RAIDEN 18」の死体を有効活用云々とかは食べ物を粗末にするなと似た考えですね。