アニメごろごろ

楽しんで頂けたらツイートなどしてもらえると喜びます。

「戦国妖狐」最終17巻感想

戦国妖狐 17 (BLADE COMICS)

戦国妖狐 17 (BLADE COMICS)

スピリットサークル」と同様に「戦国妖狐」の最終回も賛否両論になるかもしれないと水上先生は話されていましたが、個人的にはとても爽やかな幕の引き方で満足でした。最終回の千夜が読者に向けて語りかける演出は「うしおととら」みたいな古い作品を思い出して何だか懐かしい気分に浸れました。

昔の漫画やアニメではあんな風にキャラが受け手に対してメッセージを向ける演出は時々見られましたね。水上先生は「うしおととら」が好きなので「戦国妖狐」の最終回もその影響を受けているかもしれません。そういえば迅火とたまのキャラ設定は「うしおととら」に登場する九尾の狐がモチーフの白面の者から着想を得ているのでしょうか。狐の変化は日本では常識で様々な作品に使われていますが、白面の者みたいに全身ではなく尾を変化させて攻撃に用いる作品は珍しいですし、迅火の能力も白面に由来している気はしています。


力を得る代償と強さの定義
主人公の目的と敵の目的が最初に語られた「惑星のさみだれ」と比較すると、基本的に先の展開を設計せずに描かれていた「戦国妖狐」は物語が何処に向かうのか見えない部分がありましたが、最初から最後まで通して読んでみると力を得る代償と強さとは何なのか、物語の序盤から問われていた軸はぶれていないんですよね。

迅火は力を求めて強引な覚醒を続けた挙句の果てに暴走してしまい、千夜は争いの種となる己の中にある強大な力を恐れ、月湖は無力な自分を変えて誰かを守れる力を欲して、ムドは孤独に力のみを追い求めて生きていました。この力を得る代償と強さにまつわる話は様々なキャラを通して描かれていますが、その中でも第一部と第二部で活躍した真介の存在は欠かせません。

物語開始時の真介は農民である自分が侍や坊主の下で虐げられる弱者である事を許せずにいました。弱い奴には生きている価値が無いと考える真介は、自分を変える為に野盗を倒して名を挙げて大名に声をかけてもらおうとしたり、迅火や斬蔵に戦い方を教わり強者になろうとしていましたが、その考え方は旅の中で少しずつ変わり始めます。その最初の切欠を与えたのは斬蔵とその妹の氷乃の会話にある。

氷乃「お兄様は表舞台に立ちたくないのですか…幸せになりたくは…」

斬蔵「野心を果たさなきゃ幸せになれねぇ?そんなわきゃねぇだろ…」

周囲から称賛を集める輝かしい表舞台に立つだけが幸福になれる道ではないのだと強者である斬蔵の口から聞かされる。この言葉は虐げられない強者になろうという野心を持つ真介の心に何かを残した事でしょう。まだこの時の真介は強者にならなければいけないと考えていたみたいですが、強者が自由で幸福な生き方を手に入れられるかどうかは別の話。

それは第二部に登場する足利義輝が証明していました。足利義輝は真介や斬蔵の何倍も剣の才能も権力も富も持ちますが、それが幸福と直接的に関係しているかというと無関係ですよね。農民は農民で大変な生活をしていると思いますが、将軍は将軍で責任は大きい上に命も狙われますからね。

幼少期に弱いせいで家族と共に逃げてばかりいた義輝はその悔しさを糧に生きて、その果てに闇も見惚れる程の優れた剣技なんかも身に付けた訳ですが、それでも個人としては凄いだけで戦争という大きな流れは変えられませんでした。ここに真介が求めていた力の限界を感じます。

戦国妖狐 13 (BLADE COMICS)

戦国妖狐 13 (BLADE COMICS)

斬蔵と別れた後も旅を続けた真介は灼岩を助けられない自分の弱さを痛感させられ、復讐心に縛られる事の虚しさを荒吹から教えられ、闇の住む村で生活をするなど幾つもの経験を積んだ結果、野心が打ち砕かれた代わりに他者の弱さも許せる器の持ち主になる。連載を追いながら読んでいた時には真介の変化が少しずつな為に精神的な成長を感じられ難かったのですが、最初から最後まで一気に読み返すと真介が人間を喰らう闇を力で従えずに話し合いをして慕われている姿を見るだけでも涙が出ます。

そんな許せる者である真介が残したであろう人間とおとなりさんの住む百鬼町、そこが無力感も風に流す穏やかで優しい町と言われるのはとてもらしいですね。主人公でもヒロインでもないから物語の本当に美味しい見せ場では姿を見せませんが、烈深を一刀両断するところとか幽界で灼岩を救うところとか名場面には恵まれていたと思います。

ところで真介に関して気になっている部分があるんですけど、真介は本気で野禅を殺すつもりはあったんでしょうか。私怨を捨てて闇の世界の為に戦いを挑んだことは本心だとしても、その動機だけで真介が野禅の命を奪える様な非情な人間には思えないんですよね。ただそうすると真介が華寅に対して「やった」と答えないで「殺った」と答えるのは不自然。個人的には誰も殺さない平和な世界を目指した仲間の意思を無視して、真介が野禅を積極的に殺そうとするとは思えないので、あの台詞は研究者としての野禅を殺したという意味と解釈しています。

真介以外ではムドの成長する姿が印象的。戦闘狂で力にしか興味を示さずに孤独に生きてきたムドですが、好敵手の千夜や師匠の道錬や友人の猩々達との出会いによって精神的に成長していきました。最初は相手を倒せる圧倒的な力が全てという少年漫画のライバルらしい価値観で生きていたのですが、千夜に敗北を切欠に生まれながら持つ力の他に人間が磨き上げてきた技の必要性も感じ始め、さらには猩々達との交流から美味しい酒を造れるなどの様々な力の価値を認めるなど、他者を敬う事も覚えてその価値観を次第に広げていきます。

ムドが求めた絶対的な強者は世の中に存在しません。圧倒的な強者に見えた神雲は精神的に脆い部分がありますし、精神的に打たれ強い道錬もお色気に弱い部分がありました。ところでお色気攻撃で道錬が鼻血を出して倒れたのに対して、神雲は無反応なのは両者の女性経験の差なんですかね。まあそれは置いといて話を戻しましょう。

そのムドの精神的な成長が最も感じられる場面は、最終回での千夜との勝負。前々から伏線は張られていましたから、最終回で千夜とムドが戦うと予想はしていましたが、その内容がまさか囲碁になるとは予想していませんでした。しかも千夜以上に頭が切れるのだから驚きですね。昔に見られた戦闘狂の面は消えて大分落ち着きました。

前は茶よりも椀を大切にする人間の考えは意味が分からないと話していたのに、今では盆栽や俳句も楽しめるんですから本当に変わりましたよね。そういえば月湖に似ていると噂のムドの姉は作中には一度も登場しないまま完結してしまいましたが、あれは短編集に何度か姿を現した龍を指しているという事で良いんでしょうか。