アニメごろごろ

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「ガッチャマンクラウズインサイト」はどの様な物語になるのか


僕らは、僕らのことがしりたい
ぼくらの「国」には「社会」がないこと
「社会」と「世間」はちがう世界で生きているということ

情と理
「悩む」のではなく「考える」ことが大切ということ

現代人は「速」すぎる
呼吸も浅く早い
ゆっくり深くが「僕ら」は苦手だ


ガッチャマンクラウズインサイト」の公式サイトが更新されイントロダクションに上記の文章が書かれました。前作がかなり面白かったので期待しているのですがどうなるでしょうか。新しい情報を得る前に一度無謀にも続編の内容でも予想してみたいと思います。

まあ現時点では上の画像とイントロダクションと累が車に乗る事しか推理する情報が無いので、全然的外れな意見しか出なさそうですけど、それもまた面白そうなのでやるだけやってみます。多分七月にはこの記事は黒歴史になる気がしますが考えない事にします。


分断された世界認識
まず「ぼくらの国には社会がない」とはどういう意味か。国とは領土と国民と主権が必要であり、その国にいる国民達の関係性が社会や世間を勝手に生み出します。部族社会等の国の無い社会はあっても、その逆の社会の無い国というのは定義から考えるとまず存在しません。ですからイントロダクションの文章は定義上の国に社会が無いとかそういう話では無いのでしょう。

これは想像でしかありませんが、個人個人の認識している国や社会を指しているのだと思います。国も社会も世間もありますが、それらが一つに繋がっている感覚が無い。社会と世間が違う世界に生きているという文章も、それらが繋がらずに分断されている事を意味しているのかもしれません。

個人差はありますが現代人がネットでの自分や会社での自分や家庭での自分と幾つもの顔を持っているのと同様に、国にいる自分と社会にいる自分と世間にいる自分が別物であるという感覚があるのではないでしょうか。本来密接に繋がる国と社会と世間に対する帰属意識が、分断されてしまい全部独立した違う世界にしか見えない。この感覚は現代では強まっているのではないでしょうか。

昔は近所付き合いや会社の飲みニュケーションが本人の意思とは無関係に行われ束縛されました。無理矢理付き合わされている為に自分の興味の薄い分野の話題も出ますが、それのおかげで自分の好きな事しか見ずに視野が狭まる事を防ぎやすいです。

現代はネットを使えば自分の好きな分野に特化した集団とだけ関わる事も出来てしまいます。例えばアニメなんてかなり狭い範囲だけ見ても、スレは細分化され考察専用にキャラ萌え専用と幾つもありますよね。興味のある分野の中でもさらに興味のある分野を扱う集団がある世の中。数え切れない程に存在するそれらの集団を、その時の目的に応じて使い分けコミュニケーションを取れるのが現代です。

極端な言い方をすれば一つの集団で狭い強い繋がりを持ち複数の話をするのが昔だとすれば、複数の集団で広い緩い繋がりを持ち一つの話をするのが今の時代。

束縛の少ない自由な社会では簡単に繋がり簡単に離れられますが、その反面集団に対する帰属意識が低いです。強い繋がりを持たず常に居場所が変化する状態にいると自分とは何者なのかを感じ難かったりします。産まれてから現在まで日本で日本人より幼少期から海外を転々としてきた日本人の方が、日本に愛着や日本人としての意識を持てないのと同様に、自分が何者かを感じられないから「僕らは、僕らのことがしりたい」となるとか。


考えられない現代人
後半の「悩むのではなく考えることが大切」あたりの文章はネットから大量の情報を摂取する事に追われ、時間を掛け熟考する事が出来ない現代人のあり方を指しているのだと思います。ネットから大量の情報云々はイントロダクションには書かれていませんが、前作でネット社会を題材にした中村健治監督の作風的に、大量に流れるネットの情報の真偽も確かめずに踊らされる人達の姿は扱うと見ています。

タイトルに入っているインサイトは洞察の意味もあるので先程の話と合わせると、この作品が考えられない現代人のあり方を主題にする可能性は高いのではないかと。今作に登場する新たな敵らしき存在は舌を出しどこか小馬鹿にした様な外見をして知性があまり感じられませんが、彼等の存在がインサイトと何か関係していそうですね。「ガッチャマンクラウズ」にクラウズと呼ばれる存在がいたみたいに、あれもインサイトという名前だったりするのでしょうか。青、白、赤の三色からは理髪店のあれしか思い浮かびませんが…これは国と社会と世間の三つを意味しているのかも。


ガッチャマンクラウズ」に残された問題
前作では爾乃美家累が一人のヒーローが世界を変える事を否定し、皆の力によって世界を変える事を目指しました。内発性の高い人間だけにクラウズという特別な力を与え世界を変える累の目論みは途中で失敗に終わり、カッツェの妨害もありクラウズを持った一部の人間が好き勝手に暴走し始める事態になりました。

最終回ではそれに対処する為にクラウズの使用者を増やし、そのクラウズを持つ人間の遊び心を利用して、暴走したクラウズを倒すという世界の役に立つ遊びを考案した事により解決します。無償の善意に期待せずに快楽を求める人間の本性から生まれる行動を世界に貢献する方向に誘導する仕組み作りをする。

そんな「ガッチャマンクラウズ」には問題が二つあって、一つは問題解決には主人公の一ノ瀬はじめの力が無ければ至らなかった事です。はじめの言葉に累達も期待をしていますし、カッツェの事もはじめが背負い終わります。ヒーローを否定しようとしながら、はじめというヒーローに頼ってしまい、そこを乗り越えられ無かったのが一つ目の問題点。

もう一つの問題点はクラウズで溢れる社会がどう変わるのかまで描けていないところにあります。当初は続編なんて作る予定が一切無かったので、その辺は色々大変な事もあるけど何とかなるだろうと具体的に描かずに適当に済ませられました。とりあえずカッツェと累の物語は畳めたので続編が無いのであれば、これで十分綺麗に終わったと考えても良いのですが、続編があるとなるとそこに踏み込まない訳にはいきません。

クラウズなんて銃以上に厄介な存在がある混沌とした世界をどう描写するか、そこを考えた上で新たな物語を作らなければならないという超絶厳しい状況に置かれています。続編を作らされると知っていれば、クラウズを使用不可にして終わらせた方が楽だったでしょうね。

ガッチャマンクラウズインサイト」では考える事が苦手な現代人がクラウズを持つとどうなるのか、そこを深堀りする事になるのかもしれません。クラウズを用いたゲームに興じている人間は、与えられたゲームをやる受け身な姿勢ですから、ある意味では踊らされ自分の頭で考えていない層と言えます。カッツェの時の様に悪い方向に誘導されれば簡単に悪事を働いてしまう恐れがある。そんな人間達に考えさせるには何が必要なのか問われるのではと予想しています。

そしてはじめをヒーローの座から引き摺り下ろす為に、はじめは行方不明になったり敵側になったりするのでは無いでしょうか。そしてその状況の中でガッチャマン達は各々自分の頭で考え決断を迫られる事になると思います。これもう予想というか妄想の域に突入しているけど気にしない事にする。