アニメごろごろ

楽しんで頂けたらツイートなどしてもらえると喜びます。

「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ」感想

劇場映画シリーズ第12作目
監督 水島努


「オトナ帝国」の後を継いだ「カスカベボーイズ」
原恵一監督は水島努さんに演出、絵コンテを任せながら「暗黒タマタマ」から「アッパレ戦国大合戦」までの六作品を作り上げ、その後に監督の座を譲り渡された水島努監督は「ヤキニクロード」と「カスカベボーイズ」を作り上げました。「ヤキニクロード」が自身が監督を務めた短編映画「クレしんパラダイス! メイド・イン・埼玉」の様なギャグに特化しているのに対して、「カスカベボーイズ」はそれとは打って変わって原恵一監督の代表作となった「オトナ帝国」の様な内容になりました。

「カスカベボーイズ」のあらすじは寂れた映画館で上映されていた西部劇の中に取り込まれたしんのすけ達が、その未完成の映画を自分達が役者として動き完成させることで脱出を試みるといったものです。この虚構の世界に安住せずに現実に帰還する展開は「オトナ帝国」と同じですね。「カスカベボーイズ」はひろしを含めて現実に帰りたいと願う人達が大勢いる為に「オトナ帝国」と比べると現実を優先している風に見えてしまいますが、みさやマサオなど映画の世界に居心地の良さを感じている人達も中にはいます。

みさえは次第に映画の世界の中で得た仕事に生き甲斐を感じ始め、質素な生活とはいえマサオはネネとの偽りの夫婦生活を楽しんでいました。彼等の様に映画の世界に満足し長居をしていると現実の世界のことを忘れてしまい、しかもそれが次第に気にならなくなり現実に帰る動機もそのうち失い映画の世界に馴染んでいってしまう。じわじわと侵食される恐怖を恐怖としても認識出来ないのだから厄介ですね。余談ですが「カスカベボーイズ」を見たことで「ログホライズン」の死による記憶の欠落の恐ろしさを理解出来ました。

この脱出しようとする意欲すらも奪う世界に抗うには確固たる意志が必要であり、しんのすけにとってそれは現実の世界にいるシロとななこお姉さんに会いたいという気持ちでした。帰らなければならない場所があるからこそ、映画の世界を脱出することが可能となる。もしもしんのすけがシロも映画館に連れて来ていたら現実に戻る動機を失っていたかもしれませんね。

倒されることでしか終われないジャスティス知事
映画の悪役であるジャスティス知事は悪役という立場上、何時か映画が完結する時には倒されることが決められています。終わりよければ全てよしという言葉がありますが、ジャスティス知事にはその様な素晴らしい終わりは来ません。映画が終わるまでは支配者として君臨出来るのなら十分恵まれているとも言えますが、ジャスティス知事はその支配者生活にも退屈しているんですよね。だから暇潰しに風間に保安官をやらせてみたり、みさえの下手糞な歌を聴いてみたりします。そうでもしなければ永遠に繰り返される時間には耐えられないのでしょう。

もしもそんな時間に精神が耐え切れずに物語を動かしてしまうと、ジャスティス知事には悪役として主人公に倒される結末しか訪れない。幸福な最後を迎えられないジャスティス知事に同情してしまいそうになりますね。ジャスティス知事は加害者であると同時に、悪役を作らなければ娯楽として成立しない映画の被害者でもある。


「平凡な毎日に○あげよう」に込められた想いとは何か
私がこの作品を評価している大きな要因の一つにEDの「○あげよう」があります。このEDの歌詞がどういったものか簡単に説明すると、夢を叶えられず望まない仕事をする大人がそんな平凡な毎日を前向きに受け入れるというものです。「カスカベボーイズ」の主人公はしんのすけ、風間、マサオ、ネネ、ボーちゃんと子供達なのにEDはどういう訳か大人に向けられています。

作中における大人は現実どころか映画の世界ですら物語の主人公の様な輝かしい夢は叶えられず、現実逃避する為の理想的な場所も持つことが出来ないのですが、これを踏まえ考えるとするとEDには「カスカベボーイズ」を観ている大人達に対し都合の良い世界など有り得ないのだと自覚させる意味が込められているのかもしれません。大人にはそうした映画の中に逃げ込むことさえも許されないので、せめて妻や子供を養う為に一生懸命働いて生きる平凡な毎日に○をあげることが必要ですし大切なんだと思います。