アニメごろごろ

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「風立ちぬ」創造的人生がボロボロだった奴が創造する意味はあるのか

「創造的人生の持ち時間は10年だ。君の10年を力を尽くして生きなさい。」

夢の中のカプローニからこう言われた二郎の10年はどんな結果を残したのか。開発した戦闘機の性能は本当に見事で天才の仕事と呼べるものでしたが、開発した戦闘機は終戦間近には次々と撃墜されてしまい、最終的に日本は敗北するというボロボロなものでした。ご覧の様に創造的人生が残念な結果を迎えた次郎に対して、夢の中に現れた菜穂子は「生きて」と願います。

この台詞を聞いて思ったのですが、二郎が生きることにどんな意味があるのでしょう。宮崎駿監督が何を考えてこの台詞を菜穂子に喋らせたのか気になります。大切な菜穂子の側にいる時間を削りながら力を尽くして生きてきた創造的人生、それが終わりを迎えることは二郎の生きる意味の喪失に等しい。創造的人生も菜穂子も残されていない二郎は果たして真っ当な人間として生きられるのか。

そんな風に考えたりもしたのですが、モデルとなった堀越二郎は戦後も設計の仕事を行い、教育機関で教鞭を執りながら78歳まで生きているんですよね。「風立ちぬ」の二郎も恐らく同じ様に生きるのでしょう。そうだとすると二郎は創造的人生が終わりを迎えた後も技術者として活躍しているはず。実際の結果だけ見たら創造的人生なんか終わっても人生に問題はないと宣言しているようなものでしょう。

カプローニにあのような言葉を語らせた宮崎駿監督自身はどうかと言えば、引退を何度か考えながらも何十年とアニメを作り続けています。それだけの年月を仕事に費やした宮崎駿監督の創造的人生も二郎同様に終わっていると思われます。まさか72歳にもなってまだ創造的人生の途中なんてことはないでしょうからね。創造的人生の最後が何時なのかは知りませんが、数年前に「崖の上のポニョ」が最後の作品になるだろうと話していたので、「崖の上のポニョ」以降だと創造的人生は終わっているはずです。本人に創造的人生が終わりを迎えたという自覚が無ければ、作品を作らないだろうなんて言葉は出ないですからね。

そんな創造的人生の持ち時間が尽き枯れた宮崎駿が「風立ちぬ」の製作を決意した裏には何があったのでしょうか。常識的に考えてクリエイターとしての持ち時間が尽きたと自覚しているはずの人間が作ったものが、全盛期のものより優れていることは考えられないでしょう。それを証明するかのように最近の宮崎駿作品は公開されれば客は集まりますが、「昔の作品の方が面白い」とか「脚本が意味不明」とか否定的な意見も見られました。けれども宮崎駿監督は創作を辞めずにひたすら描き続けてきました。

そして完成した「風立ちぬ」で描かれたのは自分の夢に忠実に全力で前に進んだ主人公の姿。大勢の命を奪う事になるとしても夢を追い続ける二郎は最近の無気力気味な宮崎駿作品の主人公とは正反対。これが本当に創造的人生の終わった人間の生み出した作品なのかと疑いたくなる程に熱量を持っていました。宮崎駿監督の創作に対する熱意を見ると創造的人生が尽きる尽きないはクリエイターには些細な問題でしかないんだなと心の底から感じます。「風立ちぬ」にはそうした創造を止められないクリエイターの考えるクリエイターの生き様が描かれていたと思います。

風立ちぬ」のキャッチコピーは「生きねば」でしたが、これはただ生き続けないとならないのではなくて創造的人生を生き続けろと、クリエイターであれば何があっても「作らねば」ならないと言っている様に受け取りました。宮崎駿監督がクリエイターとは何かを自分に問い掛け、そして出した答えが込められていたのかもしれません。